凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)
■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
→「藤ヶ谷氏は代々高城氏の家臣であったらしく、高城胤則の滅ぶや(→天正18年の後北条氏の滅亡)、その遺児胤次(のちに胤重)は徳川氏の世に召しだされ旗本となつた。当時将軍家から旧貫および古系図などを問われたので、旧臣をしてこれを調査せしめたが、その主たる旧臣のなかに藤ヶ谷修理介の名がある。この城も、高城氏の属城として代々藤ヶ谷氏が居城していたものと見える」というように「千葉県東葛飾郡誌」の記述を踏襲する形で記されています。なお「吉取神社」とあるのは「香取神社」の誤り。
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→藤ヶ谷の地名が建武3年(1336)の斯波家奉書に見られ、高城家家臣に藤ヶ谷修理の名が認められ、本土寺過去帳に藤ヶ谷刑部少輔の名のあることから、これらの人物と藤ヶ谷城との関わりのあることを示唆している。
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
→「相馬文書」「相馬岡田文書」から、相馬氏との関わりについて考証し、藤ヶ谷城の前身を相馬氏の居館であろうと推定し、戦国期には「高城家由来書」「本土寺過去帳」「八木原文書」等の史料に基づき、高城氏家臣の藤ヶ谷氏が城主であったことにについて実証的に論及している。
■郷土史・歴史関係
「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)
⇒「城郭史」(31頁から42頁)の項は、旧沼南町に所在している中世城館に関する記述に詳しいが、残念ながら記述自体も新しくはなく縄張図等の参考図も付されてはいないことなどが惜しまれる。
→藤ヶ谷城については歴史的経緯については殆ど触れられず、立地条件と残存遺構に関する記述のみが記されている。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
→「藤ヶ谷城の堀 風早村藤ヶ谷字城の堀に香取神社あり、按ずるに小金城主高城胤則の亡ぶるや遺孤胤次(後に胤重)は徳川氏の世に召し出されて将軍旗下の士となれり、当時将軍家より旧貫および古系図等を問われしに依り旧臣等をして之を調査せしめし主なる旧臣中に藤ヶ谷修理介あり蓋同氏の居城なりしか。(八木原氏文書参照)」とある。
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)
→「日本城郭全集」に記載されている藤ヶ谷氏について、「相馬文書」「高城家由来書」「本土寺過去帳」「八木原文書」等の史料に基づき実証的に論及している。
■史料
−
■その他
−
・2010/08/25 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
|