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千葉県柏市の城館索引へ戻る  藤ヶ谷城 藤ヶ谷城のバナー 藤ヶ谷城元屋敷(通称)
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/01/11のブログ 金山寺山城 柳戸砦
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)藤ヶ谷字城ノ堀
歴史、人物、伝承

相馬氏の居館から高城氏の支城へ
 現柏市内の中世城館のなかでは手賀城などとともに比較的広大な城域を伴う城郭であるが、国道の縦断や宅地化等に伴いその面影は薄れつつある。
下記の資料等によれば、鎌倉時代末期から14世紀末頃までは相馬(岡田)氏の支配下にあり相馬氏の居館が存在していたことが示唆され、戦国期には小金高城氏家臣の藤ヶ谷氏(→相馬氏の係累とも)が在城していたであろうことが推定されているがその詳しい事績については分からない。
 城域内には相馬姓の旧家が数件所在しているというが、天正18年(1590)主家である小金高城氏の滅亡により藤ヶ谷氏は帰農し、先祖所縁の相馬姓に復したものと推定されるのではないだろうか。

確認可能な遺構
 郭、崖線ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年1月9日 11時25分から12時40分
訪城の記録 記念撮影

 交通量の多い城跡 ( 2010/08/25 記述 )
 この2年ほどの間に10往復以上は通過しているお馴染みの国道16号線。何時もはその崖線部と雑木林を一瞥するだけで、まじまじと眺めたのは今回が初めてのこと。所在地の確認の容易で、その名も「藤ヶ谷交差点」付近が城跡の中心部なので城跡の北西から南東方向にかけて国道16号線が縦断。このため移動に際しては、通行量の多い国道で分断されていることにより信号待ちのためにやたらと時間を消費。下記の城ノ堀付近の画像を撮影するのにも、十数分を要するほどに車の往来が頻繁。
 また折しも南西側の通称元屋敷とも呼ばれている台地辺縁部では法面造成工事の真っ最中。その肝心の通称「元屋敷」とも云われた辺りは、旧状は跡かたもなく伐採、伐根されて整地を待つのみといった塩梅。また北東部の腰郭状地形も物流関係企業の広大な駐車場へと変貌を遂げておりました。遺構全体としてみれば、僅かに北西部の崖線地形と香取神社境内周辺などに城跡の残滓があるようにも思われたのでありました。

藤ヶ谷城、城ノ堀付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
国道16号線が縦断する藤ヶ谷城中心部 −画像A−
( 2010/01/09 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

藤ヶ谷城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
城郭遺構との関連が不明な堀跡状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
かつて郭状の地形が存在していた付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 不詳の堀跡状地形
 通称「馬場」とも呼称されている辺りの雑木林の山中に「コの字型」に遺されている空堀状地形と堀上げ土塁状地形。人工的な地形であることには確実なのですが、その形状と配置から、城館遺構との関わりが推定出来かねました。
凸2 郭状の地形が存在していた付近
 千葉県の調査が実施された四半世紀以前には主郭部の一部と推定される地形が存在していた辺りの様子ですが、往時のものとも思われる土塁の断片地形が残存するのみで全体としては企業の駐車場に変貌しておりました。
 なお、画像右手住宅付近にも土塁跡が確認できます。

北西側の崖線部 ⇒ 画像クリックで拡大します
香取神社 ⇒ 画像クリックで文化財標柱解説へ
凸3 北西側の崖線部
 城郭跡の崖線部のなかでは最も城跡らしい面影を伝えていると感じられる個所です。なお崖線自体のカーブは自然地形の小さな谷津状地形に伴うものです。
凸4 香取神社(4−1、4−2)
 現状の城跡のなかでは最高地点と推定される香取神社社殿。この画像をクリックしますと、「藤ヶ谷城」について記された画像へリンクします。

腰郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭跡? ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 腰郭状地形
 香取神社境内の北側には、城跡の旧状を伝えるやや広めの腰郭状地形を留めている景観を確認することができますが、耕地化等によって次第に消滅へと向かっているように思われました。
凸6 北東の郭跡
 かつての郭跡の名残りと推定される地形ではありますが、近年の耕地化、宅地化などにより地形の改変が進んでいる印象は否めないようで、下段の新しい削平地は企業の駐車場となっていました。

通称「元屋敷」付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
「金山落し」の細流
凸7 通称「元屋敷」付近
 たまたま、お会いした地元の方のお話では、眺望の良いこの辺りの土地について、通称「元屋敷」と呼んでいたとのことでしたが、この現状から城館の痕跡は確認しようもなく...
凸8 「金山落し」の細流
 現在は幅2m前後の細流の「金山落し」の水路ですが、手賀沼の干拓工事がすすむ以前には、数多の入り谷津からの流水を集めた豊富な水量を伴う河川であった模様です。

藤ヶ谷城(城ノ堀)の遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
「藤ヶ谷城」の南西の防御ライン
凸9 藤ヶ谷城(城ノ堀)の遠望
 「金山落し」対岸の白井市のコンビニ駐車場から撮影した遠景で、台地地形としての特徴を把握できます。藤ヶ谷城自体が「金山落し」とその支流の分岐点に向かって突出した舌状台地に所在しています。
凸10 南西の防御
 南西の防御ラインと想定されている入り谷津を利用した堀跡ですが、宅地化に伴い往昔の面影を偲ぶのも厳しいところでした。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
→「藤ヶ谷氏は代々高城氏の家臣であったらしく、高城胤則の滅ぶや(→天正18年の後北条氏の滅亡)、その遺児胤次(のちに胤重)は徳川氏の世に召しだされ旗本となつた。当時将軍家から旧貫および古系図などを問われたので、旧臣をしてこれを調査せしめたが、その主たる旧臣のなかに藤ヶ谷修理介の名がある。この城も、高城氏の属城として代々藤ヶ谷氏が居城していたものと見える」というように「千葉県東葛飾郡誌」の記述を踏襲する形で記されています。なお「吉取神社」とあるのは「香取神社」の誤り。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→藤ヶ谷の地名が建武3年(1336)の斯波家奉書に見られ、高城家家臣に藤ヶ谷修理の名が認められ、本土寺過去帳に藤ヶ谷刑部少輔の名のあることから、これらの人物と藤ヶ谷城との関わりのあることを示唆している。

「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
→「相馬文書」「相馬岡田文書」から、相馬氏との関わりについて考証し、藤ヶ谷城の前身を相馬氏の居館であろうと推定し、戦国期には「高城家由来書」「本土寺過去帳」「八木原文書」等の史料に基づき、高城氏家臣の藤ヶ谷氏が城主であったことにについて実証的に論及している。

■郷土史・歴史関係
「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)
⇒「城郭史」(31頁から42頁)の項は、旧沼南町に所在している中世城館に関する記述に詳しいが、残念ながら記述自体も新しくはなく縄張図等の参考図も付されてはいないことなどが惜しまれる。
→藤ヶ谷城については歴史的経緯については殆ど触れられず、立地条件と残存遺構に関する記述のみが記されている。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
→「藤ヶ谷城の堀 風早村藤ヶ谷字城の堀に香取神社あり、按ずるに小金城主高城胤則の亡ぶるや遺孤胤次(後に胤重)は徳川氏の世に召し出されて将軍旗下の士となれり、当時将軍家より旧貫および古系図等を問われしに依り旧臣等をして之を調査せしめし主なる旧臣中に藤ヶ谷修理介あり蓋同氏の居城なりしか。(八木原氏文書参照)」とある。
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)
→「日本城郭全集」に記載されている藤ヶ谷氏について、「相馬文書」「高城家由来書」「本土寺過去帳」「八木原文書」等の史料に基づき実証的に論及している。
■史料


■その他


・2010/08/25 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
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