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千葉県柏市の城館索引へ戻る  高柳城 高柳城のバナー 高柳城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/01/11のブログ 高柳谷中台城 藤ヶ谷城 藤ヶ谷中上城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)高柳字馬洗戸(まらいど)
歴史、人物、伝承

寺院跡か築城遺構か
 高柳城は北流する大津川に向い北西方向に突出した舌状台地上に占地していますが、県道8号船橋我孫子線が南北に縦断しているため城館跡は東西に分断されています。残存遺構が目立つのは主に県道の東側であり、西側台地斜面の一部にも空堀跡等と想定される地形も確認できます。
 南北朝初期から14世紀末頃までは相馬氏の影響下に置かれ、16世紀以降には小金高城氏の支配下に置かれていたと推定されていますが、城館としての築城・支配など直接的な関わりについては不明です。
 なお、「沼南町史第1巻」によれば「堂屋敷」との呼称もあるという。

確認可能な遺構
 二重土塁、空堀、郭?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2010年1月9日 14時30分から15時10分
訪城の記録 記念撮影

 山中に眠る二重土塁 ( 2010/08/28 記述 )
 県道8号線の東側台地山林地内に、二重構造の空堀と土塁が比較的良好な保存状態で残存しています。取分け土塁西側切岸部分には高さは2mを遥かに超える個所も確認できるという嬉しい誤算でした。
 しかし二重土塁との記載がなされているとはいうものの、現地では竹林等に視界と移動が遮断制限されています。南北方向にのびる土塁周辺はまだしもそこそこの視界を得ることができますが、東側部分については堀跡、土塁ラインを目で追うことがやっとというような密生した竹林に阻まれています。このため明確なラインを掴み切れず、概念図の下書き作成には一苦労をした顛末があります。また踏査そのものも、準備・時間不足という状況に陥り、遺構の全容を把握するとは到底言い難い極めて断片的なものとなってしまいました。もしも、程よい機会があれば再訪しなければならない城館跡です。
 一方、 「沼南町史」「日本城郭体系」等では小規模な屋敷跡であろうとの示唆がなされています。また西側に所在する天台宗善龍寺は東側の台地より移転したとの寺伝もあるとのことです。 そうすると、城館⇒後の菩提寺建立、或いは寺構の一部というような仮説も考えられなくもなくありませんが、現存する二重土塁の規模から察しますと城館遺構としての要件を備えているようにも思われます。

高柳城の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭内で高さ2mを測る土塁跡
( 2010/01/09 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地での情報を基に作成しました。。

高柳城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
土塁南西部 ⇒ 画像クリックで拡大します
土塁中央部付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 土塁南西部
 県道8号線を徒歩にて北上し、南側の宅地境辺りから県道を外れて雑木林へと分け入りました。県道脇から直ぐに視界に入るはずもありませんが、幾らも進まない内にこの巨大な土塁を目の当たりにできます。
 南北方向に伸びる二重土塁の南西部付近を撮影したものです。
凸2 土塁中央部付近
 二重土塁構造とはいっても、堆積物も少なくなく実際にはよくよく観察しないと幅広の土塁と見間違えそうな中間部の堀跡(地面の窪み)でした。
 幾分逆光気味の条件で撮影を行い、凹部分を分かりやすく工夫したつもりなのですが、人間の目には及ぶべきもありません。

土塁湾曲部 ⇒ 画像クリックで拡大します
土塁北端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土塁湾曲部
 二重土塁の総延長はこうした湾曲部のカーブも含めれば、少なくとも約70mほどに及ぶものと推定され、土塁内側(→たぶん郭内)での高さは最大で2.5m、平均で2m前後の規模を有しています。
凸4 土塁北端部
 南側からの二重土塁遺構が消失し、土塁の残欠や空堀跡が確認される台地北端付近ですが、後世の地形改変などにより、全体として縄張り構造そのものが明確ではなくなっているという印象を抱きます。

野草保護地
天台宗善龍寺 ⇒ 画像クリックで文化財標柱の解説へ(「火災で消失」→「火災で焼失」か?)
凸5 野草保護地
 この「野草保護地」の看板に立てられている個所を目標にして南側の林の中に分け入る方が分かりやすいという、当然の事実を理解したのは退場する直前なのでありました(笑)
凸6 善龍寺
 台地西端麓に所在する天台宗高柳山善龍寺の参道と山門。日没までの残り時間の関係で現在の寺域周辺の踏査は行えませんでした。「沼南町史」などでは、この善龍寺境内を含めた台地を城館域と捉えいてるようです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
→「相馬文書」「本土寺過去帳」などによる、相馬氏、相馬御厨、高柳村の支配関係の詳しい論考が収められている。

■郷土史・歴史関係
「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)
⇒「城郭史」(31頁から42頁)の項は、旧沼南町に所在している中世城館に関する記述に詳しいが、残念ながら記述自体も新しくはなく縄張図等の参考図も付されてはいないことなどが惜しまれる。
→当城郭跡について、「城址は堂屋敷と呼ばれ、高柳山善龍寺の旧寺域であったという。残存遺構が堂屋囲いの遺構であるのか、それとも築城時における遺構であるのか明らかでないが、そこに見られる空堀を挟んだ二重土塁の様相は、存立期を中世戦国末期以降と考えたい」と記している。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
→高柳村についは、建武3年(1336)11月22日の斯波家長奉書に「相馬郡内..高柳村等事」と記されているように、南北朝初期から文献に現れることを示している。当該史料によれば、足利尊氏の命により当村を含む所領が相馬親胤に知行されていた。また、応永2年(1395)とされる南相馬村田数注文においても、「たかやなきのむら 9丁3反半」との記述がある。(「相馬文書」より)

「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料


■その他


・2010/08/28 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
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