素人 の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願いま す。
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2009/12/02のブログ 凸増尾城 凸戸張城 凸箕輪城 | ||
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千葉県柏市(旧沼南町)大井字追花 | |
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土塁、空堀、郭、土橋ほか | |
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なし | |
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2009年12月2日 11時45分から12時50分 |
( 2009/12/02 撮影 )
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) 「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林) ⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版 「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房) ⇒歴史的経緯と現存遺構についての考察に詳しい。 ■郷土史・歴史関係 「沼南町史」(1979/沼南町) ⇒宅地化進行以前の縄張りの説明が比較的詳しく記されるが、残念ながら縄張図としては示されてはいない。また、北側の日蓮宗妙照寺西端付近(現在は柏霊園の造成により消滅)にも、かつては出丸址と推定される土塁が存在していたことも記している。なお、城郭との関連を示す小字名として大木戸、大木戸出口、殿山などがあり、存立期は戦国期と推定推定している。 「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店) ⇒元禄郷帳によれば379石余と記され、また応永2年(1395)と推定されている南相馬村田数注文(相馬文書)には「おお井のむら 20丁4反」と記され相馬領に属していたとされてるように、中世以来一定の生産力を伴う集落であったことが窺われます。 「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版) ⇒「大井城址 風早村大井字追華にあり、城山と称すれど規模、さのみ広大ならず、今は松林なれども空堀、築壁今尚残れり。里人云う相馬の一族高城某の城跡なりと、その麓に鼻喰田(ハナツケゲ)と称する處あり、口碑に伝う、大井城主と対岸戸張の城主戸張弾正との戦闘止むことなく、一ト年最後の決戦に両将相搏ちて水田中に落ち、果ては短刀抜くに隙もなく、何れなりけん其の鼻梁を喰われたる古跡なりと、又伝う往昔坂巻若狭守(⇒同書によれば、相馬氏一族とも)なるものあり大井城主にして(五條谷、大井境に城址あり⇒現在、五條谷城の所在は不詳とされている)此に出城を設け戸張氏と対陣せしと、所謂その鼻喰田の古跡を残すせしもの其孰れなるかを断ず可からず、然れども確執の事実は大井、戸張両村仲悪しきを遺風となりて存し、今尚縁組は勿論職人等の雇入れもせぬ程なりとぞ。...付記 城山の現所有地主は坐間泰次郎氏にして昔は大井城主の七人衆なりしと、小金城主高城氏にも坐間遠江守なるものあり七人衆の一人なり」と記され、坂巻氏や高城氏の関与を示唆しています。 「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房) 「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社) 「利根川の歴史」(2001/国書刊行会) 「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房) ■史料 − ■その他 ・2010/08/12 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正 |