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千葉県柏市の城館索引へ戻る  大井追花城遠景 大井追花城 大井追花城空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/02のブログ 増尾城 戸張城 箕輪城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)大井字追花
歴史、人物、伝承

高城氏支配下の支城か
 古くは相馬氏一族坂巻氏との関わりが伝わり、16世紀の初頭より小金城主高城氏の影響を受けるようになったものと考えられますが、現状の遺構からは城郭としての縄張り構造の全容を掴みとることは難しいものがあります。
 また「沼南町史」、「東葛の中世城郭」などによりますと、戦国期の城郭として捉え地元旧家である坐間氏が城代・在番衆など一定の関わりを有していたことが推定されています。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、郭、土橋ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年12月2日 11時45分から12時50分
訪城の記録 記念撮影

 初冬の藪 ( 2010/08/12 記述 )
 当初の計画通りに城跡近くのファミリーマートに駐車し、昼食の「おにぎりとサンドイッチ」を購入しました。遺構は北西方向に緩い傾斜がかかる台地先端部が中心で、比高差は水田面からは目測でおよそ10m前後かと思われます。またよくよく考えてみれば戸張城とは大津川の谷津田を挟んだ隣同士の関係にありました。「中近世城館調査」ではおよそ3/4の遺構が残るとの記述がありますが、しかし、生憎と宅地化等の影響からか台地先端部には郭とこれに伴う二重土塁の一部と空堀が僅かに残存するのみでありました。送電線の鉄塔は同居するのみならず、肉眼では兎も角もデジカメ画像がどうにもならない藪の塊同然で、如何に撮影角度を変えようともただの藪以外の何物でもなく...という状態でありました。このほかの遺構は東側竹林の中にひっそりと佇む南北方向に長さにして40mほどの土塁のみといった案配で、但しこの土塁さえも北端部分では畑の根切溝による地形改変と交わり混然一体の感(4−2)もあり、反対方向の南側では宅地造成による明らかな分断消滅という事態でありました。
 なお、「東葛飾郡誌」には、「大井城址 風早村大井字追華にあり、城山と称すれど規模、さのみ広大ならず、今は松林なれども空堀、築壁今尚残れり...」と記されています。この地誌が編纂された大正12年(1923)当時においても、既にそれほど大規模な遺構は残されていは無かった模様なのかとも納得するような次第でありました。

崖線近くの空堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
大井追花城の空堀跡 −画像A−
( 2009/12/02 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)掲載の現況地図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

大井追花城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
崖線先端部の郭跡
崖線部の遠景
凸1 崖線先端部の郭跡
 この崖線先端部の郭には台地続きの個所に明確な土塁を伴っているのですが、肉眼ではいざ知らずデジカメ撮影ではただの藪同然でありました。そうしたなかでどうにか人工的削平の跡が感じられる画像がこの郭跡です。
凸2 崖線先端部
 画像からも分かるように、水田面との比高差は10m前後と余りありません。加えて郭跡にどっかりと設置されている送電線の鉄塔がバッチリと写り込んでおります。

北西方向からの遠景
南側の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北西方向からの遠景
 送電線の鉄塔が余りにも目障りに思いましたので、逆光で撮影してみましたが、今度は電柱が障害物となってしまいました。
凸4 南側の土塁(4−1)
 南側の竹林のなかに所在している高さ1m前後の土塁なのですが、現物の質感が現れてはおりません。帰りがけに撮影した畑脇の地形(4−3)の方が、如何にも土塁らしく見えましたがその詳細は不明です。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
⇒歴史的経緯と現存遺構についての考察に詳しい。
■郷土史・歴史関係
「沼南町史」(1979/沼南町)
⇒宅地化進行以前の縄張りの説明が比較的詳しく記されるが、残念ながら縄張図としては示されてはいない。また、北側の日蓮宗妙照寺西端付近(現在は柏霊園の造成により消滅)にも、かつては出丸址と推定される土塁が存在していたことも記している。なお、城郭との関連を示す小字名として大木戸、大木戸出口、殿山などがあり、存立期は戦国期と推定推定している。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
⇒元禄郷帳によれば379石余と記され、また応永2年(1395)と推定されている南相馬村田数注文(相馬文書)には「おお井のむら 20丁4反」と記され相馬領に属していたとされてるように、中世以来一定の生産力を伴う集落であったことが窺われます。
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
⇒「大井城址 風早村大井字追華にあり、城山と称すれど規模、さのみ広大ならず、今は松林なれども空堀、築壁今尚残れり。里人云う相馬の一族高城某の城跡なりと、その麓に鼻喰田(ハナツケゲ)と称する處あり、口碑に伝う、大井城主と対岸戸張の城主戸張弾正との戦闘止むことなく、一ト年最後の決戦に両将相搏ちて水田中に落ち、果ては短刀抜くに隙もなく、何れなりけん其の鼻梁を喰われたる古跡なりと、又伝う往昔坂巻若狭守(⇒同書によれば、相馬氏一族とも)なるものあり大井城主にして(五條谷、大井境に城址あり⇒現在、五條谷城の所在は不詳とされている)此に出城を設け戸張氏と対陣せしと、所謂その鼻喰田の古跡を残すせしもの其孰れなるかを断ず可からず、然れども確執の事実は大井、戸張両村仲悪しきを遺風となりて存し、今尚縁組は勿論職人等の雇入れもせぬ程なりとぞ。...付記 城山の現所有地主は坐間泰次郎氏にして昔は大井城主の七人衆なりしと、小金城主高城氏にも坐間遠江守なるものあり七人衆の一人なり」と記され、坂巻氏や高城氏の関与を示唆しています。
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料


■その他


・2010/08/12 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正
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