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素人 の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願いま す。

千葉県柏市の城館索引へ戻る  箕輪城の遠景 箕輪城のバナー 箕輪城空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/11/16のブログ 戸張城 松ヶ崎城 根戸城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)箕輪字城山
歴史、人物、伝承

高城氏の支城か
 箕輪の地名は突き出た台地上に展開する集落が箕の縁に似ていることに起因するという(「沼南風土記」より)ように、当城の台地を含め手賀沼へと張出した台地は複数所在している。また、この箕輪の地名は応永2年(1395)と推定されている南相馬村田数注文(相馬文書)に「みのわ 6丁6反60歩」と記されているものに合致するものと考えられる。元禄郷帳に88石余とあり、また五條谷も元禄郷帳では僅かに14石余りであることから、何れにしても中世末期においては箕輪城に伴う大規模な集落の存在は考えにくいものがあります。
 「東葛飾郡誌」では高城伊勢守の守城と伝えていますが、この人物の仔細は不明とされいます。しかし下記の参考資料によりますと、小金城主高城氏の実戦的な支城として機能していたであろうことが窺われています。

確認可能な遺構
 土塁、郭、空堀、土橋、腰郭、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年11月16日 14時40分から16時05分
訪城の記録 記念撮影

 道の駅沼南 ( 2010/08/11 記述 )
 箕輪城への右折すべき個所を通り過ぎたついでに、「道の駅沼南」に車を置いて東側遠景を眺めつつアプローチ。600mほど戻ることとなった市道は、幅員が狭くガードレールはおろか歩道部分は無いも同然なのでありました。その割には車両の往来が顕著で、西側の病院方面から入るのが常道と思いつつも些か危険な歩行。
 さて城跡までの比高差は20m前後という事情もあり、直接東側の斜面を這い上がることに決定。しかしこの週末までの降雨と従来からの低湿地の名残なのか、台地麓付近は予想以上に地盤軟弱でありました。因みに崖線下の湧水部分もろに足を踏み入れて足首まで沈下する旨を実証(笑)
 東側および北側の台地麓部分から続く急斜面。ただしこの地形が近年の土砂の採掘などによるものか、元来の自然地形なのか、或いは城館遺構に関連する地形なのかは何とも判断致しかねます。急斜面に叢生する樹齢などから判断する限りでは些か新しそうにも思われますが。なお手持ちの略測図とすぐには地形が符合せず些か慌てる事態に。取敢えずは病院の建物の位置を目安にして遺構の残存状況を観察。建物の建設とこれに伴う駐車場の設置になど伴い、遺構の半分以上が消失していることだけは間違いなさそうな状況かと。
 また南西部の空堀も周辺も、耕作地としてある程度は地形改変が為されている模様。二の郭南側をめぐる空堀では土橋状地形が確認でき、そのまま小口へと繋がっているような印象もあります。
 なお、主郭部分と考えられる西側土塁は生憎とフェンス越しの対面となりました。主郭から南東方向に細長く張り出した出廓部分は非常に特徴的縄張りかと。こうした築城技術の観点から観察した限りでは、比較的単純な構成である戸張城と比較した場合には、ある程度の年代差がありそうにも思えたのでありました。
 今回は久しぶりとなる現地での「概念図」作成の下書き等々を。思いのほか時の経過は早いもので、曇天に加えて落葉前の木々に覆われた自然環境。午後4時過ぎには早くも夕闇が迫り始めるような始末に 加えて、手賀沼南部という気象条件から、今にも雨粒が落ちてきそうな空模様となってきました。結局この日は6時間近くの手間をかけたものの、戸張城、戸張用替城の計3か所(より正確には2か所+α)のみで、このシーズン初日となる城館探訪を終了したのでありました。

箕輪城の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
箕輪城の空堀と土塁
( 2009/11/16 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

箕輪城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
箕輪城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
”郭と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します"
凸1 東側からの遠景
 この地域の城館跡を探訪する時期は、城址公園化されているような師戸城、増尾城、松ヶ崎城などを除くと、早くとも落葉が完了する12月下旬以降から新緑の目吹きの始まる4月初旬頃までが相応しいようです。
凸2 郭3の土塁
 箕輪城の大半は手賀沼病院敷地となっており、建設前には東西280m、南北180mの規模を有し5か所から成る郭群が確認できたとされます。現在確認できる郭は主郭、郭2の大半と、この郭3東側の一部だけとなっておりました。

土橋状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭を隔てる空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土橋状の地形(3−1)
 下段の堀底道から郭2への小口?(3−2)へ続くと見られる土橋状の地形で、この直下には二段の腰郭(3−3)も確認できます。
凸4 主郭と郭2を隔てる空堀
 画像左側が主郭の切岸で堀底からの高さは目測でおよそ5mほどかと。堀幅は上面では10mを超える規模を有していました。

主郭の突出部 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭土塁の北端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭土塁
 主郭土塁の南東方向に伸びる郭の突出部で、画像中央から左側が出郭部分となり、主郭南側の小口への堀底道を睥睨していたものと考えられます。この約6mほど下段にも同様の形態をとる空堀と土塁の縄張構造が確認できます。
凸6 主郭土塁の北端部(6−1)
 主郭土塁の北端部はそのまま崖線と直角に交差し、比高差約20mの急崖となって切れ落ちています。
 ただしこの崖線地形(6−2)がこの地域特有の土砂の採掘などによるものか、或いは元来の自然地形なのか、城館遺構としての切岸地形なのかは断定し難いものがあります。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
 「箕輪城は直属する中世集落が存在せず、−周辺地域に対する領域支配を行う存在ではなかった蓋然性が極めて強い−その存立木の開始は15世紀末葉以降とされてよい」との性格づけがなされている。
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「沼南町史」(1979/沼南町)
 ⇒「病院建設以前の縄張りの説明が詳しいく、築城以降としての縄張は複雑な様相を呈し、防戦堅固な築城を主眼としており、特に戦闘築城を目的とした城であると思われる。城址の位置的状況は、大津川が手賀沼へ流入する重要な位置にあり、伝えられる小金大谷口城の高城氏との強い関係にあった城と思われ、存立期は戦国末期と推定される」と性格づけています。
「千葉県の歴史 資料編中世1考古資料」(1998/千葉県)
 ⇒県内の発掘・学術調査が実施された中世城郭約70か所を収録
 1981年と1986年の発掘調査の概要を記し、「小金城主高城氏領の北東端域の境目城」との性格づけを行っています。
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
 ⇒「風早村大井城址(=大井追花城)に比し、規模大なり、濠の如きも今尚深く残れり、五條谷(=ごじょうや、箕輪城南方の集落名(小字))」は固(=もとより)其の城下にして、大木戸は大手の備えなりしと、約四五町にして字前田に当時の馬乗場と称する處あり、また字桝形には方形に堤を圍繞(=いにょう、周囲を取り囲むの意)せり、是れ兵員を計りたる所にて、小町山は兵士の衣類の紺を揚げしところとぞ、此城は小金領風早荘戸張郷戸張弾正の家臣高城伊勢守の守城なりと。相馬文書に、箕輪三郎あり古木領主ならん」との記事が見られます。
「柏−その歴史・地理」(相原正義/2005/崙書房)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料

■その他


・2010/08/11 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正 ※近年宅地の拡張などにより南側の横堀などが消滅している模様である。
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