素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。
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2009/04/16のブログ 凸松ヶ崎城 | |
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千葉県柏市増尾字稲荷下 |
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郭、土塁、空堀、櫓台、小口ほか |
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なし |
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2009年4月16日 16時00から16時40分 |
( 2009/04/16 撮影 )
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社) ⇒「東葛飾郡誌」において「相馬氏の相馬領であったことから、欧州行方郡地頭職の相馬彦次郎師胤が、その母の遺領を継承し在城した」との説を示すとともに、あわせて「戦国時代には小金高城氏の家臣平川若狭守の居城となったと」の説も示している。 「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ⇒「口碑によると弘安の頃(1278-87)相馬胤村が、その母の遺領であったこの地に奥州行方郡の地頭職から移り住んだことが城の始まりといい、その子師胤の子孫が奥州の小高に移るに及んでその家臣が居城し、戦国時代には高城氏の家臣平川若狭守が居城した」旨を記している。 「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林) ⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版 「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房) ⇒「永禄年間の高城胤吉、胤辰の時代に「士大将平川若狭守」として記され天正18年の豊臣秀吉による関東攻略の際には小金城に籠城した」(「高城家由来書」)とされていることを挙げていますが、その一方で「平川若狭守の本拠地が増尾城であったという所伝を裏付ける確実な証拠史料は存在しない」としています。 「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会) ■郷土史・歴史関係 「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社) 「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店) ⇒暦応2年3月の相馬胤頼軍忠状案(相馬文書/福島県史)には兼務3年3月22日広橋経泰が奥州小高城を攻撃した際に、相馬胤経の家人増尾十郎が手傷を負ったことが記されており、当地増尾との関わりについて示唆されている。 「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版) 「常総内海の中世」(千野原靖方/2007/崙書房) 「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社) 「利根川の歴史」(2001/国書刊行会) 「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房) ■史料 − ■その他 − ・2010/06/13 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正 |