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千葉県柏市の城館索引へ戻る  増尾城の副郭 増尾城のバナー 増尾城の副郭土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/16のブログ 松ヶ崎城
所在地
 千葉県柏市増尾字稲荷下
歴史、人物、伝承

小金城主高城氏の支城とも
 手賀沼へと注ぐ大津川沿いに所在する中世城郭のひとつで、台地の南北が谷津により隔てられた比高差15mほどの台地東端部に所在しています。
 「東葛飾郡誌」では相馬胤村の子である師胤が亡母の遺領を継承してこの地に居城した後、戦国時代には小金城を本拠とする高城氏の家臣である平川若狭守が居城したと伝わるとされていますが、現在残されている城跡はその形状などの特徴から戦国時代のものと考えられ、高城氏の支城として存在していたもの見ることが妥当な模様です。(「改訂版 図説房総の城郭」より、その大意を引用)

確認可能な遺構
 郭、土塁、空堀、櫓台、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月16日 16時00から16時40分
訪城の記録 記念撮影

 整備された城址公園 ( 2010/03/25 記述 )
 資料不足の関係から、実のところはそれ程の期待をしないで訪れた城館跡でした。というよりも、日没までの残り時間の関係で、最も移動距離が近くかつ確実に遺構を観察できると思われたのがこの増尾城。
 ところが事前の期待に反して遺構状況は真夏でも探訪可能なほどに極めて良好に保存され、南側崖線部では大方消失しているものの、北側を中心として郭内側での土塁の高さも3mを優に超える規模の個所も散見されたのであります。
 また櫓台としか表現ができない土塁の張り出し部分も明確かつ大規模に現存。無論城址公園として整備され来園者が多いことから、土塁の斜面などが幾分磨耗・崩壊している感もありますが、反面においてそれだけ地元の方々に日頃から親しまれているという傍証なのかとも思う次第でありました。自宅付近に城址公園などのない地域に居住している管理人にとっては誠に羨ましい限りの存在でした。


増尾城の副郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
夕暮れの増尾城副郭内部と土塁 −A−
( 2009/04/16 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「図説中世城郭事典」/1887/新人物往来社)等の掲載の略測図を基本に作成させていただきました。

増尾城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
増尾城の現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
増尾城副郭の東側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 現地解説板(1−1)
 副郭の東側土塁内には縄張り図付の詳細な解説板が設置されていますが、2010年6月現在に至っても何故か文化財としては未指定の模様です。
 副郭の南西小口部分には三方向に対して横矢がかかる構造を有する高さ約3.5mを測る櫓台と推定される土塁の突出部分(1−2)が所在しています。
 副郭と主郭の西辺南部には両者を隔てる堀切状の空堀(1−3)があり、喰違い小口の構造などから空堀(堀切)の普請も想定されますが主郭を隔てる東側土塁と副郭の北側土塁(1−4)付近に明確な痕跡は見つからず。
凸2 副郭の北側土塁(2−1)
 副郭の北側土塁の現状からは、そのまま概ね主郭の北側を防御する土塁に接続していますので、低いところでは比高差4.5mほどの副郭の土塁上に駆け上がりさえすれば、そのまま主郭を睥睨する位置に到達してしまうこととなります。こうして見ると主郭西側の土塁に空堀が付随していない現状が不自然に思われてなりません。
櫓台へと続く副郭西側土塁(2−2)
⇒三方に睨みを利かせている櫓台上部の様子(2−3)
 

副郭の北側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
増尾城主郭北側土塁と小口 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 副郭の北側土塁(3−1)
 画像右手が郭内(比高差2mから2.5m)で左手が郭外(比高差4.5mから5m)となるこの副郭の北側土塁は、多少の折歪があるもののほぼそのままに主郭の土塁へと接続しています。
⇒西側と比べるとやや低さが目立つ郭内から撮影した副郭の北側土塁(3−2)
 
凸4 主郭の北側土塁と小口部分(4−1)
 現状の遺構状況からは、何の変哲もなさそうな小口(4−2)に見えてしまう個所ですが、実際には僅かに喰違い状のラインを成しています。
⇒副郭の北側土塁へと続く主郭の北側土塁上部(4−3)
 

主郭北東小口付近 ⇒ 画像クリックで拡大
増尾城の北側空堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭北東側小口付近(5−1)
 この画像の主郭北東側小口までの堀底からの比高差は目測では約8m以上を測ります。
小口手前の小口受となる腰郭(5−2)
⇒小口への坂道中段に独立する櫓台乃至は腰郭のような地形(5−3)
小口へ続く急斜面 (5−4)
 
凸6 増尾城北側の土塁と空堀(6−1)
 主郭直下の空堀と土塁までの比高差は8m前後となっていますが、元々の谷津地形の影響を受けて副郭方面に近づくに従いその比高差は半分ほどに減少します。
副郭北側の空堀のコーナー付近(6−2)
副郭北側直下の折歪を見せる空堀(6−3)
櫓台北方付近の空堀の様子(6−4)
 
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
⇒「東葛飾郡誌」において「相馬氏の相馬領であったことから、欧州行方郡地頭職の相馬彦次郎師胤が、その母の遺領を継承し在城した」との説を示すとともに、あわせて「戦国時代には小金高城氏の家臣平川若狭守の居城となったと」の説も示している。

「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
⇒「口碑によると弘安の頃(1278-87)相馬胤村が、その母の遺領であったこの地に奥州行方郡の地頭職から移り住んだことが城の始まりといい、その子師胤の子孫が奥州の小高に移るに及んでその家臣が居城し、戦国時代には高城氏の家臣平川若狭守が居城した」旨を記している。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
⇒「永禄年間の高城胤吉、胤辰の時代に「士大将平川若狭守」として記され天正18年の豊臣秀吉による関東攻略の際には小金城に籠城した」(「高城家由来書」)とされていることを挙げていますが、その一方で「平川若狭守の本拠地が増尾城であったという所伝を裏付ける確実な証拠史料は存在しない」としています。

「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
⇒暦応2年3月の相馬胤頼軍忠状案(相馬文書/福島県史)には兼務3年3月22日広橋経泰が奥州小高城を攻撃した際に、相馬胤経の家人増尾十郎が手傷を負ったことが記されており、当地増尾との関わりについて示唆されている。

「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007/崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料

■その他


・2010/06/13 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正
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