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素人 の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願いま す。

 
千葉県柏市の城館索引へ戻る  戸張城の遠景 戸張城のバナー 戸張城の土塁と空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/11/16のブログ 松ヶ崎城 根戸城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)戸張字城山台
歴史、人物、伝承

戸張氏代々の居城とも
 12世紀の末千葉一族の相馬師常の三男行常が戸張氏を称したとされ、「本土寺過去帳」にも戸張が散見され戸張氏代々の居城となったという。俗称を「戸張の城山」ともいう。(※「日本城郭全集」より)
 また「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)によれば、戸張氏は天文7年(1538)10月の国府台合戦における敗北により戸張城を退去し、その後元亀・天正年間には梁田氏に属して下河辺吉川郷で活動していたともいうようである。
 戸張城は手賀沼に注ぐ大津川左岸の防御性に優れる舌状台上に所在している。然し周辺の箕輪城、根戸城、松ヶ崎城の眺望は遮られ、僅かに大津川対岸の大井追花(おおいおっけ)城方面が観望できるのみであることから、「日本城郭体系6」ではより手賀沼に近い戸張本村付近の台地における城郭の存在を示唆している。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、郭、腰郭ほか
文化財指定
 なし(現地説明板あり)
訪城年月日
 2009年11月16日 12時30分から14時00分
訪城の記録 記念撮影

 遅い訪城シーズンの幕開け ( 2010/08/08 記述 )
  夏場は持病との相性が今ひとつで、2009年5月山形遠征以来5ヶ月ぶりとなる城館探訪。暑さが遠のいた9月下旬以降からは、ただひたすら徒歩通勤で、毎週あたり少なくとも30kmほどの足慣らしを励行。とはいえ、あくまでもダイエットを兼ねた平地での歩行訓練に過ぎないもので体力の強化には程遠いものがありました。
 そうはいっても、いきなり比高差200m超の山城探訪は年齢的に考えれば無謀なような思えます。それならばある限度の資料が揃っている下総方面ならば比高差の問題は皆無に近いものがありました(笑)そこで夕刻からの所用も兼ねて柏市内の国道16号線沿線の5か所ほどを抽出してみました。
 2009年初めより何度となく行き来している国道16号線柏隧道北側が城跡。隧道北側の側道には「戸張城址」の文化財標識も設置されています。城跡には文京区の教育施設が所在し、柏市の緊急避難所と指定されているものの、周辺のネットフェンスや掲示物からは関係者以外の立ち入りが難しそうな印象でした。
 それでも反対側の外周道路からアプローチし、台地先端部の廓とこれに続く廓、そしてさらに西側へと続く台地上に土塁と空堀跡等が未だに現存していることを確認いたしました。また校門脇から続く土塁と空堀の南端部には柏市の文化財説明板も設置されておりました。
 建物施設の老朽化等の事情により現役稼働中なのかどうか、どちらかといえば余り人の気配が感じられないようにも感じます。なお、南西部の帯廓一帯は只今分譲中であることを示す比較的新しい看板が設置され、次第に城跡としての景観が失われつつあるように思われました。

戸張城二の郭の土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
戸張城二の郭土塁と空堀
( 2009/11/16 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本にして東側からの俯瞰図風にスケッチしたものです。

戸張城概念図(俯瞰図) ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
国道16号線柏隧道
西方の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 登り口(1-1)
 国道16号線柏隧道手前の側道が登り口目印。このトンネルの反対側からも登れますが、この時点では車の場合駐車スペースの関係もあり、そのまま側道の坂道を登ることに。
⇒側道脇に設置されている戸張城址への案内板(1-2)

凸2 西方の土塁
 柏隧道が貫通する個所のやや西寄りに所在している土塁状の地形ですが、戸張城との関連は不詳です。
 隣地の宅地化に伴うもの、柏学園の記念碑建立等な伴うもの、柏隧道建設に伴うものなども想定されますが、南側から入り込む谷筋のラインと符合することから三の郭の所在を示す残滓とも考えられますが詳細は不明です。

分譲中の土地
柏学園正門の二の郭土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 分譲中の土地(3−1)
 二の郭北西に所在する細長い腰郭の上方の傾斜地では土地の分譲が行われておりました。
⇒またこの時点では画像左側の直下の崖下に腰郭乃至は帯郭(3−2)状の地形を確認できました。

凸4 二の郭土塁
 柏市の災害時の緊急避難場所に指定されておりましたが、正門は施錠中でありましたので、止むなくフェンス越しに撮影をさせていただいたものです。後世の地形改変が明瞭なことから、二の郭への小口として存在していたかについては推測の域を出ません。

東側からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭南側腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 東側からの遠景(5−1)
 東側水田地帯の農道から撮影した遠景で、水田面との最大比高差は15m前後を測り、周辺道路の建設にも拘わらず東側に向かって突き出した台地としての特徴がよく残されています。画像左側の谷が、手賀沼へと注ぐ大津川周辺の低地帯。
船着場とも推定されている南側の不詳の平坦地(5−2)
凸6 主郭南側腰郭
 柏学園校舎が所在する主郭の南側に位置し、「千葉県東葛飾郡誌」(大正12年刊行)に掲載された「戸張城址」の略図にも、確かにそれらしい記載がありますが、半世紀以前の校舎建設時の地形改変を受けているのかどうかは判断に迷うところです。
 

二の郭土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 二の郭土塁と空堀(7−1)
⇒二の郭空堀奥に設置されている施設所有者の文京区が設置した現地解説板(7−2)
二の郭土塁(7−3)
 
凸8 柏隧道
 城跡の西端を貫通する柏隧道の内部で、帰りがけに埼玉方面の入口方向を歩道上から撮影したもので、このトンネル画像右上方向が戸張城址です。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
⇒相馬氏略系図、本土寺過去帳における戸張氏記事を要約した一覧表が掲載され、戸張城、戸張氏に関する考察も詳しい。
■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
 ⇒「千代田村大字戸張俗称城山にあり、等南面一帯水面(大津川流域)に面し北面又谷津田あり、標高20mの突出丘陵にして現今土塁の形状僅かに存して又空堀あれども甚だ深からず...里伝に云う、戸張弾正忠此に居れりと。蓋し行常戸張郷を食み戸張氏を称す、弾正は其裔なるべし、又本土寺過去帳に戸張氏を散見す。」との記載と共に相馬略系図、戸張城址略図が掲載されています。
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料


■その他


・2010/08/08 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正
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