千葉県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動

素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県柏市の城館索引へ戻る  泉城 泉城 泉城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/23のブログ 鷲野谷城 鷲野谷の遺構 鹿島城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)泉字立ノ台(たつのだい)
歴史、人物、伝承

戦国期の城郭址か
 泉地区の東南の南側に向けて突出した舌状台地上に所在し、南方には金山落しの水路が東流しています。現状の水田面からの比高差は最大で約15mを有するとともに、北側の台地続きを除き急傾斜の崖線により隔絶された要害地形を形成し、当該地については戦国期まで使用された中世城郭であろうと推定をしている。
 また、手賀沼西小学校付近の「泉妙見山城」とは別の城跡であり、「泉城」と呼称されるに至った理由については鎌倉時代末期の元享年間(1321−1324)に奥州相馬郡へ移住した相馬五郎胤康の館址との伝承に基づくものであろうとしている。(※以上は「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)より要旨を引用)
 なお、この相馬氏に関連すると考えられる方形単郭の館址について字古内を比定地としているが、現地を踏査した限りでは県道沿いの崖線下の狭隘地でもあり、現状の地形からはそうした形跡を見出すことは難しい。別名を「立ノ台遺跡」ともいう。

確認可能な遺構
 空堀(竪堀状)、帯郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年12月23日 9時10分から9時45分
訪城の記録 記念撮影

 城郭遺構の残滓? ( 2010/08/17 記述 )
 城跡と推定されている台地上は果樹園と野菜畑と旧家の宅地となっていまが、そうした状況で少しでも城館関連遺構としての可能性があるとすれば、台地南東側の空堀状地形(A−2)と帯郭状地形とも見えなくもない部分辺りであろうと思われます。
 勿論こうした地形については、手賀沼干拓の事業拡大に関連するものとの可能性もまた否定できないようにも思われます。しかしこのようにして実際に画像の編集を行ってみますと、宅地への近道のような切通しの細道さえも台地を横断する空堀の延長の縦堀のようにも考えられ、さらにこの堀跡状の地形からは細長い帯郭状地形さえもが続いているように見えてくるのでありました。
 なお、昭和45年(1970)に行われた「千葉県中近世遺跡調査目録」によりますと、城跡は「台地端にあり、形状は単郭、土塁、空堀一部あり」とされたが、「その調査以後に破壊消滅した」とのこと。しかし、「城址地域の旧家宅地(果樹園を併設)と、その周辺に土塁、空堀址が発見され、それらの遺構が築城遺構の残存するものか、それとも後世に作られた単なる家囲いの境界のためのものであるか明らかでない」とも記されています。(「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)より引用した)

竪堀状の形態を残す空堀地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
泉城の竪堀状の形態を残す空堀地形
( 2009/12/23 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地でのメモを基本にして作成しました。

泉城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
北東方向からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
台地東側の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北東方向からの遠景
 概ね東側の崖線部を中心として確かに城郭遺構のような地形が残されてはおりますが、四季を通じて木々が茂りその外形からは分かりにくくなっておりました。
凸2 台地東側の帯郭
 この細長い地形はこの先では概ね消滅しているように思われます。金山落しの水路沿いの以前における水田面の高さが不明なので何とも言えないところですが、宅地への近道にしては足元が未整備のようにも感じられます。

竪堀状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
台地崖線先端部から ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 竪堀状の地形
 「画像2」の帯郭気味の地形の撮影地点から振り返って撮影したもので、このV字型の人工地形には一定の関心を抱かざるをえません。
凸4 台地崖線先端部
 人工的に削平されたようにも見えてしまう台地崖線先端部から竪堀状のV字地形を俯瞰したもので、「画像3」とは全く正反対の方向から撮影しています。

帯郭状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
竪堀状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 帯郭状の地形(その2)
 画像「2」よりも北寄りに隔絶された形態で東側崖線部に刻まれた人工地形です。宅地への近道のようにも思えますが、取り立ててこの個所へ続くようなルートは見当たりませんでした。
凸6 竪堀状の地形
 画像「2」個所から見て南寄りの地点に確認できる最大幅約10mにも及ぶ竪堀状の地形ですが、多分に後世の崖線部の崩落である可能性も想定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)・「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
⇒両書共に「泉城」として掲載されている項目がありますが、これは現在では手賀沼西小学校近くの一般に「泉妙見(山)城」と呼称される城跡について記されているものです。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
⇒「字古内地区に相馬氏関連の館址が所在し、その後立ノ台へと施設を拡大していったとの説を示し、」その後「戦国時代には泉妙見山城の支城として機能したかもしれない」と記しています。また、応永2年(1395)と推定されている南相馬村田数注文(相馬文書)には「いつミ 22丁」記され、この頃までは相馬氏との関連が見られる旨が記されている。

■郷土史・歴史関係
「沼南町史第1巻」(1979/沼南町)
⇒「城郭史」(31頁から42頁)の項は、旧沼南町に所在している中世城館に関する記述に詳しいが、残念ながら記述自体も新しくはなく縄張図等の参考図も付されてはいない。

「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
⇒上記の 「日本城郭全集 3」、「日本城郭体系 6」と同様に「泉城」として掲載されている項目があります。しかし、これは現在では手賀沼西小学校近くの一般に「泉妙見(山)城」と呼称される城跡について記されているものです。
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料

■その他


・2010/08/17 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
トップ頁へ 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動