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千葉県柏市の城館索引へ戻る  箕輪如意寺城遠景 箕輪如意寺城のバナー 箕輪如意寺城腰郭
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/02のブログ 大井追花城 箕輪城 松ヶ崎城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)箕輪字坊ノ口または字堂堅峠=どうけんびょう、とも
歴史、人物、伝承

箕輪城の出城か
 県道8号船橋我孫子線を挟んだ箕輪城の東南東約900m、比高差約15mの東へと伸びる舌状台地上に所在している。その歴史的経緯は不詳とされているが、「沼南町史」、「東葛の中世城郭」等によれば、桝方、物見塚、道堀(どうほり)の城郭関連地名が残り、手賀沼の水運を意識した谷津田対岸の高城氏の有力支城と考えられる箕輪城の出城として推測されている。
 なお城跡に建立されている如意城の創建は平安期とされていますが、あくまでも寺伝の域を出ないものか、或いは相馬氏関係一族の持仏堂のようなものが存在していたのかについては不明です。

確認可能な遺構
 腰郭、土塁ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年12月16日 13時30分から14時05分
訪城の記録 記念撮影

 竹林に佇む城郭遺構 ( 2010/08/13 記述 )
 路上駐車を避けるべく「道の駅沼南」に駐車し、この日の以降の移動手段はあくまでも徒歩。仮に4か所行けるとして、移動距離は僅かに6kmばかり。自分の足で歩いてこそ、初めて理解することのできる地形の変化なのであります。無論所用時間のロスはあるもののダイエットにも恰好の距離かと。
 さて今回の目的地は、先日訪れた箕輪城の東南東約900mの地点に所在。真言宗如意寺境内の周囲に多少の遺構が残るとの情報。寺が建立されている台地へと登る坂道にも、一見土塁・切岸のように見えなくもない地形を確認できます。けれども、これはあくまでも道路拡張によると思われる掘削跡と解すべきなのかもしれませんが詳細不明の地形です。
 中世城館遺構と思われる地形は、寺の東側の墓地とこれに続く細長い台地周辺に散見されます。墓地東側の竹林には2段?ばかりのやや大きめの腰郭とこれに伴う切岸が所在。下段腰郭の南側には土塁状の高まりも残存していました。また、台地北側を中心として帯郭状の地形も確認されますが、残存遺構は全体として叢生する竹林等に隠された形でひっそりとした佇まいを見せておりました。
 

箕輪如意城の腰郭と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
孟宗竹に隠された腰郭とその切岸 −画像A−
( 2009/12/02 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地において暫定的に作成したものです。

箕輪如意寺城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
箕輪如意城の遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
土塁紛いの地形(笑) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 箕輪如意城遠望
 こうして舌状台地の地形を遠望してみますと北側の手賀沼方面へと突出する要害の地形であったことが良く分かります。
 デジカメ画像が幾分霞んで見えますが、枯れ葉などの焚火に伴う煙なのでありました。
凸2 不詳の地形
 如意寺へと向かう坂道の途中に長さ40m弱、高さ1mほどの土塁状地形が見受けられますが詳細は不明です。 手前の道路建設に伴い生じた残土のようなもの、或いは以前から存在していた堀底状の坂道に伴うものなのかも知れません。但しこの辺りが城域の西端としますと何やら意味がありげにも思われてしまいます(笑)

真言宗如意寺本堂
本堂が所在する郭からみた帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 如意寺本堂(平安期創建の縁起)
 真言宗豊山派如意寺の本堂を南側参道と思われる方向から撮影したものです。全体の城域については判然とはしませんが、箕輪の集落の中心に近いことから恐らくはこの本堂の周辺一帯が主郭部分に相当するのかもしれません。
凸4 切岸と帯郭
 本堂と墓地が所在する郭(主郭と推定)の北側には帯郭状の細長い削平地が続いていますが、藪が至って元気に叢生しているため、地形の特徴が不明な画像となっています。

上段部分の腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
下段部分の比較的規模の大きな腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 上段の腰郭
 境内墓地の東側に所在する腰郭状の削平地ですが、墓地の造成の際に地形の改変を受けている可能性もありそうです。
 墓地の所在する郭面との比高差は手持ちのメジャーによる実測で約1.2mほどです。
凸6 下段の腰郭
 下段部分の腰郭は上段部分の3倍前後の広さを有していますが、東端部については宅地化に伴う地形の改変が考えられ余り明確ではありません。
 上段部分の腰郭との比高差は、およそ2mから2.5mを測ります。

下段腰郭南部の土塁状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北側の帯郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 土塁状の地形
 下段部分の腰郭の南端に所在する土塁状の地形で、長さは約5m。高さは最大で約2mの規模でした。櫓台のようにも見えるのですが、周辺に土塁の痕跡が見当たらないことから土塁の残欠部分と思われます。
凸8 腰郭と帯郭
 主郭と推定される本堂の北側に所在する腰郭と帯郭の画像で、切岸状の地形はそのまま比高差15mほどの急峻な崖線部と重なっておりました。また、箕輪の集落内には高城姓の旧家が少なくないようです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
 応永2年(1395)と推定されている南相馬村田数注文(相馬文書)には、「ミのわ 6丁6反60歩」と記され相馬領に属していた事が記されているが、元禄郷帳でも僅かに88石余とあり必ずしも一定の生産力を伴う大規模な集落ではなかったと考えられる。

■郷土史・歴史関係
「沼南町史」(1979/沼南町)
⇒墓地拡大造成、宅地化進行以前の縄張りの説明が比較的詳しく記されるが、残念ながら縄張図としては示されてはいない。また箕輪城との関係については、「その規模と防御技術の面においても屈指である箕輪城とは根城(本城)、付城(出城⇒箕輪如意城)の関係にあったものではないかと推測される」と記している。また城域を43アールと見ているが、現地の地形から城域を推定すると少なくとも東西200m、南北100m以上の規模が想定されるので、いささか過少気味の評価とも考えられる。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料


■その他


・2010/08/13 HPアップ
・2019/06/20 画像ズレ補正
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