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千葉県我孫子市の城館索引へ戻る  根戸城遠景 根戸城 根戸城の主郭土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/16のブログ 増尾城 松ヶ崎城
所在地
 千葉県我孫子市根戸字荒追ほか
歴史、人物、伝承

高城氏の支城か
 「千葉県東葛飾郡誌」によれば、相馬胤村次郎左衛門の子である三郎胤光が根戸氏を称しその本拠地としたとされているがその詳細は不明のようです。
 また文明10年(1478)12月に扇谷上杉氏家宰の太田道灌(関東管領上杉方)と千葉孝胤(古河公方、足利成氏方)との間で「境根原(さかいねはら)合戦」が行われたことから太田道灌による築城伝承が残されているとも言われています。境根原合戦では道灌が勝利して千葉孝胤は下総臼井城へと後退しました。
 その後戦国時代末期には後北条氏の影響下にあった小金城高城氏の拠点として利用された可能性が大きいものと考えられます。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、小口、土橋、腰郭、櫓台ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月16日 14時15分から15時30分
訪城の記録 記念撮影

 宅地開発の荒波に抗して ( 2010/07/04 記述 )
 訪れた4月半ばという時期は、主郭部分以外はそろそろ草が伸び始めているため細部にわたる遺構の探索にはやや厳しい季節でありました。
 主郭の高土塁、折歪を伴う空堀と土塁、城跡東端部の櫓台状地形、主郭と2の郭をつなぐ土橋等の遺構が明瞭に残存していました。しかし南側の低地に水田地帯が残されているものの、西側からは宅地化等の開発の大きな波、北側には常磐線、東側には新しい市道建設と市街地化の著しい周辺地域の事情を斟酌する限りでは奇跡的ともいえる存在の城跡です。
 なお、市道建設に伴い城跡東側稜線の一部を削り取って築造されたと推定される防護壁には、文化財解説板と共に城跡名を含む工事記念プレート(1−3)が埋め込まれているのですが、余り目立つ存在ではないことから危うく見過ごしてしまいそうになりました。現地の測量図を見る限りではこの削り取られた部分に櫓台から続く腰郭状の地形なども存在していたものと考えられます。
 

南側の水田地帯からの根戸城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
根戸城遠景(南側より) −A−
( 2009/04/16 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

根戸城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
根戸城南側の登り口 ⇒ 画像クリックで北側からの遠景へリンク(1−2)
金塚古墳(櫓台) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 根戸城南側からの登り口(1−1)
 登り口は宅地脇のこの細道を進みます。このまま比高差にして約15mほど登りきりますと、丘陵上の比較的平坦な地形(1−6)へと続き、更に向って右手の山林のなかを目指します。
 なお、一部削平された城跡先端(南東部)の張出し部に、工事プレートと共に詳細な実測図(1−5)を含む丁寧な解説板(1−4)が埋め込まれています。
凸2 金塚古墳(2−1)
 山道を暫く辿りますと、城跡遺構の西側には戦国時代には恐らく櫓台として使用されたとも推定される高さ3mほどの金塚古墳(1−4)の個所に行き当たります。
 「短甲」「鉾」「銅鏡」などの貴重な遺物が出土している割には、この時点での保存状況は余り良好とは言い難い現況を呈し、かつ太田道灌家臣の墳墓との伝承を裏付けるものではないようです。

2の郭外堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭へ続く土橋 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 2の郭の外堀(3−1)
 金塚古墳から30mほど東へ進むと、漸くこの幅約7mほどの空堀跡に到達します。空堀の現状の深さは画像左側で2.5mから3m、右側で1.8mから2.5mほどの規模を有しています。
竪堀状の空堀先端部(3−2)
2の郭西側土塁(3−3)、⇒2の郭西側空堀(3−4)
手賀沼方面の遠景(3−5)、⇒2の郭全景(3−6)
折歪を有する2の郭と主郭の間の空堀(3−7)

凸4 主郭への土橋(4−1)
 2の郭より主郭西続く土橋(4−4、北側から撮影)と主郭小口付近の様子。
 2の郭との間はの主郭南西部は折歪を有する空堀(4−2)や、主郭側の深さ目測最大約5m、堀幅約10mを測る空堀(4−3、主郭西側)などにより強力な防御が施されています。

主郭西側小口部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭西側土塁付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭西側小口(5−1)
 主郭部の比高差が1m以上大きいために坂小口状の土橋(4−3)となって主郭小口へと向かいます。
主郭内から見た西側小口付近(5−2)
主郭内から西側小口付近(5−3)
主郭南側小口方面(5−4)

凸6 主郭土塁北側角付近(6−1)
 画像手前が主郭の北側土塁で、北角を経由して左へと続く西側の土塁。
主郭土塁北角付近の拡大画像(6−2)
⇒北側から眺めた主郭内の全景(6−3)
⇒土塁状から撮影した主郭西側土塁の上部(6−4)

主郭北側付近の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東側の櫓台 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭北側付近の空堀(7−1)
 画像右手が主郭側に相当し、空堀を挟んだ二重土塁を形成しています。
⇒主郭側の深さは最大で目測8mを超える主郭北側の空堀(7−2)付近の様子
凸8 主郭東側の櫓台(8−1)
 主郭東側に空堀を挟んで存在する櫓台状の人工地形。
櫓台状の平坦地上部(8−2)
 

2の郭北西付近の空堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
外郭部を構成すると推定される土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 2の郭北西付近の空堀跡(9−1)
 1985年の発掘調査により箱薬研堀(上幅7m、深さ3.5m)が検出された周辺ですが、現状では殆ど埋没していることから、僅かに堀跡のラインを追える状況に過ぎませんでした。
凸10 外郭部と推定される土塁遺構(10−1)
 画像左下付近が、1985年の部分的な発掘調査により2条の土塁により構成される横堀(10−3)が確認されたとされるあたりですが、土塁の形状自体は兎も角として横堀としてのデジカメ撮影についてはほぼ困難かと。
⇒「落とし穴」(排水のための穴のようにも)ともいわれている窪地へと続く主郭西側の空堀跡(10−2)
 
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 「丘陵状にあり、遥かに手賀沼を望み、南は険崖をなして東は水田の谷をめぐらし、西北は畑地に接している。丘上は平坦であるが深さ30尺(9m)、幅24尺(7.2m)の空堀および土塁があって、雑木林がしげり、現在なお城址たることを知る。いまの御蔵跡というところが、かつての本丸であろうといわれる。
 往時は相馬一族の属城であったらしく、相馬胤村の三男三郎胤光が根戸氏を称した際、こにいたという。その後、文明年間(1469−1486)に至り太田道灌が改造したといわれ、道灌櫓が当時の名残りをとどめる。
 しかし道灌がえどにかえってからは、居城者は不明で、天正の中ごろより18年(1590)までは、高城某がいたという。廃城は天正18年か。」(以上「根戸城」の項を原文のまま転載した)
 この記述には半世紀近く以前の様子がつぶさに感じられる貴重な情景描写があり、相馬氏庶流の根戸氏に始まり、文明年間の太田道灌の遠征期を経て、高城氏の支城としてその終焉を迎えた様子が簡潔に示されている。その出典は下記「千葉県東葛飾郡誌」によるものと思われます。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史 資料編中世1考古資料」(1998/千葉県)
 県内の発掘・学術調査が実施された中世城郭約70か所が収録されている。根戸城についても遺跡の概要が記述されているが、「図1遺跡位置図」は誤って「松ヶ崎城」の位置を示しているようです。なお、上記「横堀」の存在から「2の郭」を取り巻く大規模な外郭の存在が想定され、戦国時代後期には高城氏、後北条氏による常陸方面に対する境目の城としての存在の可能性を示唆しています。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
 「富勢村根戸字荒追の丘陵上にあり、遥かに手賀沼を臨み、南は険崖にして東は水田の谷を廻らし、西北は畑地に接す。・・・口碑によれば文明年中太田道灌の築くところにして、当時西南麓字花輪下より柏堀のうち新田に一橋を架して江戸道に通ぜりと、今尚このところを道灌橋と称す、杭木の遺跡現存するものあり、又空堀の外面に一塚あり道灌の臣の墳墓なりと云う、またその西北を上屋敷と称す、・・・按ずるに往時は相馬一族の拠る處、後道灌の改築を経て城砦の形を全うせしが如きも道灌の江戸に退くや何人の拠りしやは詳ならず、左の戦記はこの地に関するものなれば是を挙ぐべし」として「東国闘戦見聞私記」の一文を大きく引用し、「天正元年5月の後北条氏の攻略に対して布佐城の豊島半之允らが我孫子の手賀沼の入江を要害とした丘陵地帯に陣を構えたが衆寡敵せずに敗北討死を遂げた」等旨が記されています。
 なお、「同誌」に参考として収録されている「根戸故城址」(富勢村誌)によると、「・・・根戸区の南端日暮八郎兵衛宅上の丘陵なり、手賀沼に臨んで屹立す。南面険崖東方は直下に水田の谷を廻らし西北は畑地に接す。地形平坦なれども空堀及土手あり。深さ3丈(約9m)幅4間(約7.2m)・・・(以下概ね同様)」との記述がありますが、塚(金塚古墳)の由来については太田道灌家臣の墳墓説を真っ向から否定し古墳であることを強調しています。

「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ません。

■史料


■その他


・2010/07/04 HPアップ
・2019/06/16 画像ズレ補正
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