千葉県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動

素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。

千葉県印旛村の城館索引へ戻る  松虫陣屋 松虫陣屋 松虫陣屋
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 松虫寺 松虫陣屋北東 城ノ内城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村松虫字談義所
歴史、人物、伝承

臼井原氏の拠点の一つ
 「日本城郭全集3」によりますと「常陸国河内郡足高城主、岡見中務少輔信貞の臣、栗林下総守義長が佐倉の千葉氏を攻めたときに陣屋をおいた」と記され、この記述については「利根川図誌」に記された記述と概ね同一であるものと考えられます。
 しかしこの栗林義長という人物像については、既に戦前において柳田国男氏が指摘されているようにあくまでも話の筋を面白くするための「常総戦記」「東国戦記」などの「軍記物」に登場する諸葛孔明を模した架空の人物であるとされています。(※岩波文庫版「利根川図志全六巻」解題より)
 真言宗松虫寺前に設置されていたの解説板には、「天正13年(1585)2月28日に鵜沢信濃守敏信という名前が刻まれた鰐口(1976年6月1日指定の印旛村指定文化財)が残されている」旨の説明がなされています。
 この人物が上総東金酒井氏家臣である鵜沢氏の一族と直接の関わりがあるのかという点について、天正年間に鵜沢氏は鋳物師としての役割を担っていたとされ、更に東金酒井氏が臼井原氏の従属下にあったことからその間接的支配下に置かれていたと考えるべきなのでしょうか。
 なお築城の主体については臼井原氏と推定され、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻による後北条氏の滅亡と時を同じくして廃城となったものと考えられています。(※「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会/2005/高志書院)、「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000刊/東洋書林)「戦国期東国の大名と国衆」(黒田基樹/2001/岩田書院)等より)

確認可能な遺構
 土塁、小口、空堀、腰郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 14時40分から16時00分
訪城の記録 記念撮影

 また、栗林義長が...
 北東方向の地形を確認後、一度南東側麓通路の様子を確認するため斜面を駆け下ることに。少し以前までは切通しとして使用されていた廃道を再び這い上がり稜線へと復帰。
 この堀切状地形が、「印旛村誌」によると通称「大堀」と呼ばれている自然地形として記述されているものと考えられます。松虫陣屋址といわれる南西から北東方向に北東から南東方向へとのびる約500mほどの細長い舌状台地には、北西から南東方向にかけて少なくとも4本の溝が刻まれています。
 そのうち最も遺構として確実なものは、最も南西側の土塁普請に伴う堀切・空堀状地形であることだけは間違いがなさそうで、次にその位置と形状から関わりが深そうに思えるのが、その北東側の低土塁を伴う印象の台地を横断するやや浅めの溝(A-1)となります。
 しかし、さらにその北東側の溝となると、これはV字型を呈した薬研堀風の掘削跡が鮮やか過ぎるように思われ、また一番北東側の溝についても同様のものと考えられます。 この2か所の溝については、仮に歴史的経緯が古いものであるとしても、後世になってからかなりの地形改変を受けているという印象が伝わってきます。
 肝心の松虫陣屋の遺構は「北総鉄道」の成田までの延伸工事ルートにかかっていたため、ほぼ南側を中心に1/3ほどが側道建設などのために消失していました。それでも北東側の小口・櫓台跡などを伴う土塁・空堀と腰郭は思いのほか良好な状態で現存しておりました。また北西部の土塁の折も明確に残存し、何度と無くデジカメ撮影を。しかしこれがなかなか肉眼で見えるような状態とは程遠い状態。下りは防護フェンス沿いにそのまま降下したことから、南側の残存遺構状況の詳細については未確認のままです。
 工事により無残に削り取られてしまった後の人工的な斜面とともに松虫陣屋の全景を観望。僅か距離にして500mに満たない低台地の縦断は、あながち無駄な時を過ごしていた訳でもなく、思わぬ謎の地形との遭遇などもあって、それなりの有意義な時を過ごしていたのかもしれません。

( 2009/12/12 記述 )
松虫陣屋北側小口 ⇒ 画像クリックで拡大します
松虫陣屋北辺の小口 −画像A−
( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図については「城郭と中世の東国」掲載の作図を基本に、現地での印象などを加味して必要に応じて一部訂正を加えさせていただきましたが西側と南側は未確認のため省略してあります。

松虫陣屋城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北辺土塁と空堀(堀切)
 画像右手部分が近世以降に埋め戻されているのかどうかは不明ですが、現状の空堀跡は幅約5mから6mほどとやや狭く感じられます。また、その深さは画像左手の土塁側で約2m、画像右手では1m未満と全体として意外なほど規模が小さいという印象もあります。
 「印旛村誌」では小口、横矢などの技法や構造からは戦国期のものであることが示唆されています。
凸2 北辺土塁の櫓台状地形
 北辺小口の東側部分は喰違い構造、櫓台跡とも見える地形ですが、どことなく画像左手の空堀部分の規模に比してアンバランスな印象のあることは否めません。
 しかし、この土塁の工事量と頑丈さなどから想定した限りでは、後世の耕作や植林に伴う空堀の埋め戻しによる可能性も拭えません。
⇒2-1北辺土塁の東端部分


「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 腰郭
 画像「1」の空堀跡の東端部下方の尾根筋に構えられた規模の大きな腰郭と、その上段付近に所在するやや小さめの腰郭(3-1)です。

凸4 北辺土塁の西角
 明治期に畑として耕作していた時期のものと思われる些か謎めいた窪地(4-1)(「印旛村史」松虫陣屋址の項より)


「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 横矢のある土塁
 倒木などのために西側と南側の様子が掴めずじまいとなった横矢(出枡)が見られる土塁により区画された郭内(5-1)の様子です。なお土塁内側の溝については、明治期の耕作に伴う根切り・排水のための溝のもののようです。
 「印旛村誌」では戦国時代の技法を示唆しつつも、簡略化された規模の「かき揚げ土塁」という見方を提示している曲折した土塁5-2ですが土塁そのものは極めて頑丈に築造されておりました。
凸6 消失した南側
 ついつい、この部分から下りてしまったので、もう一度登るという意欲が萎えてしまいました。
 おおむね白い防護フェンスが設置されている付近一帯が、北総鉄道の延伸工事による側道設置に伴う遺構消失部分(6-1)となるものと考えられます。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1995報告/2000刊/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」(1995報告)を複製し縮小の上刊行したもの。ただし、収録されている「松虫陣屋概念図」については、現況と「城郭と中世の東国」などに照らしますと、南北の方位が180度近く異なっているものと思われます。
「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会編/2005/高志書院)
⇒200頁から202頁にかけて、現存する「松虫陣屋」の遺構について「縄張図」を含む記述があります。なお、2009年3月2日の時点において、「松虫陣屋」の遺構は「北総鉄道」の延伸事業により南側部分を中心として側道法面構築のために一部消失しておりました。

■郷土史・歴史関係
 無論直接の記述がある訳ではありませんが、この地域の戦国時代の歴史や伝承などを知る上で大変役立ちます。
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)、「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)、「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「千葉県の歴史100話」(川名 登 編著/2005/国書刊行会)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)両書に「松虫陣場」・「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
⇒「軍記物」とされる上記の両書には、今のところ「松虫陣屋」あるいは「松虫陣場」に関する記述は見当たりません。
「千葉県印旛郡誌上下巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)

■史料
・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。
 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付して発刊をされたもの、同氏によれば「東国戦記」とも称するとされています。
 巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠き、また復刻版であることなどから全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めないようです。
「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという部分を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によると記されています。
 また、同書に引用されている「常総軍記」巻20によると、小林、笠神の両城を制圧した栗林義長(あくまでも架空の人物とされる)勢が、「松虫の陣場」において千葉勝胤(1470-1532)勢の襲来を待ち構えるという旨が記されています。然し近世に編纂された軍記物という性格から、その信憑性については疑問の余地が大きいものと考えられます。(何れも「利根川図誌」巻4に収録)

■その他
探訪にあたり参考とさせていただいたサイト ⇒ 「余湖くんのホームページ」

・2009/12/12 HPアップ
・2019/06/18 画像ズレ補正
トップ頁へ 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動