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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  松虫陣屋の北東 松虫陣屋の北東 松虫陣屋の北東
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 吉高城 城ノ内城 中根城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村松虫
歴史、人物、伝承

松虫陣屋の謎
 「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938/岩波書店ほか)に引用されている「常総軍記」巻20によると、「松虫の陣場」において栗林義長(※柳田国男氏の解題によると、あくまでも伝承架空の人物とされている)勢が、千葉勝胤(1470-1532)勢の襲来を待ち構えたとされる独立状の台地なのですが、近世に編纂された軍記物という性格からその信憑性については疑問の余地が大きいものと考えるべきなのでしょう。(※「利根川図誌」巻4に収録)
 さて当該地は「松虫陣屋」の遺構が所在する台地北東端に当たるというだけで、下記のように「切通し地形」「削平地」(※かつては「松虫陣屋」の内郭部分も耕作地として利用されていたとの情報もあることから、耕作地=畑跡という可能性があるのかも知れません)以外にはこれといって特に目立った地面の凹凸地形等は確認できません。一方「松虫寺」が所在する付近では土塁・縦堀状の地形を見ることができます。

確認可能な遺構
 なし(「切通し」と「削平地」のみ)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 14時00分から14時30分
訪城の記録 記念撮影

 キツネの...
 今回、踏査するかどうの判断を迷った個所で、1990年から1991年にかけて実施された千葉県県教育委員会が実施した調査(「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」)によれば「松虫陣屋」は舌状台地北東先端部に所在しているとしか想定できない内容で縄張りに関する記述と概念図が掲載されておりました。
 ところが、より新しく調査されたものと考えられる松虫陣屋跡に関する解説と縄張図等(「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会編/2005/高志書院))を参照いたしますと、台地基部南端に存在していることが明記されていました。勿論、単郭構造である事を除くと各々は全く異なる縄張りを有する城館跡のようにも思え、つまりは同じ台地上の両端部に別々の形態をした2つの「松虫陣屋」が存在しているということにもなるのかとも思われますが、無論現実にはそのようなことは考えられず、おそらくは千葉県教育委員会の報告書作成の過程において、何らかの錯誤を伴う事情が生じたものと解釈することが妥当なのかも知れません。
 しかしそうは言っても、現実にこの目で確かめてみないことには何とも言えないことから、当該舌状台地の縦断踏査をしてみることとなったような次第なのであります。まずは台地北東先端部に何らかの遺構が存在すると仮定して、台地の北側に刻まれた切通し状の山道から稜線へ。次に東側の主に篠竹にびっしりと覆われた台地先端部を東西方向(約100m)と南北方向(約60m)を夫々一度ずつ踏査を実施。つまり結果的には、崖線先端部には合計で3回ばかり到達いたしました。無論結果としては、当初の予想通り踏査は空振そのもので、少なくともこの舌状台地の北東部の地表には、中世城館に関連すると思われるような凹凸のある人工地形はほぼ現存していないという事情を把握いたしました。
 視界が遮られた藪の中を歩いているので随分と長時間を要したように錯覚するのですが、この間に要した時間は僅かに30分程度なのでありました。やはり栗林義長の伝承がある土地柄だけに、まさにキツネに抓まれたのかも知れません。

( 2009/11/28 記述 )
「松虫陣屋」の北東部 ⇒ 画像クリックで拡大
「松虫陣屋」の北東部 −画像A−
( 2009/03/02 撮影 )

訪城アルバム
「松虫陣屋」の北東部 ⇒ 画像クリックで拡大
「松虫陣屋」の北東部 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 切通し
 比高差20mほどの丘陵に刻まれた人工地形ですが、「城ノ内城」の事例と同様に折も付けられてはいますが、道そのものの傾斜は遥かに緩やかとなっておりました。
 念のために、「切岸」の高さを目測したところでは、右側(北東側)が凡そ6mでほど、左側(南西)が2.5m...それほど人の往来や需要があったとは思いにくいのですが、この台地にはこの切り通しを含め合計3本の、こうした比較的大規模な溝状地形が刻まれておりました。
凸2 「松虫陣屋」方面
 台地南東の麓から南西方向を撮影したもので、画像の中央やや右寄りの丘陵地帯が、現在でも一部遺構が現存している「松虫陣屋」と推定される一帯です。
 なおその左手には台地辺縁部を開削して建設された「北総鉄道」の高架橋が半ば出来上がっていたのでありました。
⇒平坦な削平地を形成していた台地の北東端
⇒「松虫陣屋」北東100m付近の凹凸のある地形
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」を縮小の上複製印刷したもの。
「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会編/2005/高志書院)
⇒200頁から202頁にかけて、現存する「松虫陣屋」の遺構について「縄張図」を含む記述があります。なお、2009年3月2日の時点において、「松虫陣屋」の遺構は「北総鉄道」の延伸事業により南側部分を中心として側道法面構築のために既に消失しておりました。

■郷土史・歴史関係
 無論直接の記述がある訳ではありませんが、この地域の戦国時代の歴史や伝承などを知る上で大変役立ちます。
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)、「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「印旛村史」(1984/印旛村)、「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「千葉県の歴史100話」(川名 登 編著/2005/国書刊行会)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)両書に「松虫陣場」・「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
⇒「軍記物」とされる上記の両書には、今のところ「松虫陣屋」あるいは「松虫陣場」に関する記述は見当たりません。

■史料
・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。
 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付したもので、同氏によれば「東国戦記」とも称するとされている。巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠き、また復刻版であることなどから全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めないようです。
「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという部分を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によると記されています。
 また、同書に引用されている「常総軍記」巻20によると、小林、笠神の両城を制圧した栗林義長(あくまでも架空の人物とされる)勢が、「松虫の陣場」において千葉勝胤(1470-1532)勢の襲来を待ち構えるという旨が記されている。然し近世に編纂された軍記物という性格から、その信憑性については疑問の余地が大きいものと考えられます。(何れも「利根川図誌」巻4に収録)

■その他
探訪にあたり参考とさせていただいたサイト ⇒ 「余湖くんのホームページ」

・2009/11/28 HPアップ
・2009/11/30 切通し地形等の画像を追加
・2019/06/18 画像ズレ補正
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