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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  吉高城 吉高城 吉高城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/02のブログ 城ノ内城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村吉高
歴史、人物、伝承

吉高代介の居城とも
 1984年に刊行された「印旛村史」によりますと、「城址は掛鼻山と呼ばれる突出台地上にあり、本丸址が宗像神社の裏手(北側)にあったと伝えているが、掛鼻山一帯が土砂採取のため削平されていて、遺構を把握することができない」という旨が記されています。
 一方、1990年から1991年にかけて実施された県教育委員会の悉皆調査(「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」)によりますと、城跡は標高31m、比高差26mの台地上に位置し、遺構規模は650m×230mで1/2が残存していると記されています。この部分の齟齬がどのようにして発生したのかについては定かではありませんが、現在城跡に関連すると思われる地形が殆ど消失している状況にあることだけは確実な模様です。また同調査によれば、別名を「広畑遺跡」ともいうと記載されています。
 「利根川図誌」に記されているように、千葉勝胤の影響下にあった吉高代介そのものが実在していたのかどうかはについては定かではありませんが、「印旛村史」においても述べられているように、この吉高の地に在地領主的な豪族階層が居住していた可能性も一概に否定はできないのかもしれません。

確認可能な遺構
 腰郭状地形、土塁状地形
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 12時15分から13時30分
訪城の記録 記念撮影

 風光明媚
 事前に収集した資料等の情報によれば、かつての「土取り」により概ね消失したといわれている城跡。壮大かつ良好な状態の遺構を目にすることも中世城館探訪の目的のひとつではありますが、一方失われてしまったとされる城館跡を訪れて、そこに何らかの微かな痕跡を辿ることにも別の趣を感じるのであります。
 もっともこちらの場合には、肝心の城跡の範囲が良く分からないという大きな問題が。とりあえずは国道464号線沿いの元舌状台地先端部分西側から捜索開始。東側には土取り後に新たに植林された平坦地が広々と広がっておりますが、この部分はどうやら城域からは外れている模様。そうは思っても、何とか台地が残存している東側の部分を踏査。
 このとき遠近両用眼鏡の死角とも言うべき7時方向にて、左足の太腿に竹の伐採痕である古枝が接触。より正確に表現すれば竹の枝が刺さり、これに加えてやや大型の有刺植物の棘までもおまけに(苦笑) 無論かような場合に備えて、消毒液と傷薬は常時携行。一方、この場所での肝心の遺構に繋がりそうな地形は皆無。自然地形の地山の尾根筋を確認したのみ。
 それでも竹林に覆われた舌状台地先端部の地形が妙に気になり、竹林内の小さな石祠の参道経由で急崖の先端部を登攀。すると2段に別れた腰郭状の人工地形に遭遇。僅かに残されている台地の残滓とはいえ、土取りの行なわれなかったと目される部分ではあります。次に最も東側の舌状台地方面へ。先端部は下から見上げた限りでは腰郭などの人工地形は確認出来ず。
 そのあとは宗像神社へと向かう緩やかな坂道を南進。右手には笹薮などに覆われた低台地の稜線が、その部分へと向かう農道とともに出現。もちろん吸い込まれるようにしてその笹薮へと向かうことに。稜線は西側の土取の影響のために著しく幅が狭められた状態に変形。ただし地形状からは土塁と表現すべきような延長およそ40mほどの地形が存在。しかし、その南側の宗像神社へ向かうべき尾根筋は台地ごと消失。
 国道464号線から200mほど南西に所在する旧吉高村社の宗像神社には神社に多く見ることのできる境内地を囲む神社特有の土塁状地形が。宗像神社北東の台地上からは印旛沼北側の景観が一望。かつて赤松宗旦が感動したように、やや霞んでいるものの名峰「筑波山」も遥かに望むことができ、城ノ内城にてコンビニ購入のオニギリを食べ尽くしてしまったことを後悔するほどの絶景なのでありました。

( 2009/11/22 記述 )
「吉高城」付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉高城遠景 −画像A

( 2009/03/02 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示していますがあくまでも極めて大雑把なものです。なお、概念図については「中世城館報告書」掲載に掲載されている推定地の情報を元にしたものです。

吉高城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 掛鼻山
 城ノ内城の東南東約2km、現在の印旛沼の北部調整池の南西岸に面した通称「掛鼻山」(⇒崖端の転訛か)台地上に所在していた模様です。
土取跡の残滓かと
凸2 切岸状地形
 画像「3」の石祠へと向かう、印旛沼の北部調整池に向かって台地の北端部に残されいたもので、人工的な切岸のようにも見えなくもない地形です。

「吉高城」の腰郭状地形付近 ⇒ 画像クリックで石祠拡大画像へ
「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 石祠
 城跡とは特に関連がなさそうな、寛延2年(1749)2月と刻まれた碑と石祠。
凸4 腰郭状地形
 上段部分の腰郭状地形(幅約20m、奥行約10mほど)があることはありますが、悉皆調査による推定範囲よりもやや西側に方面に位置しておりました。
上方から見下ろした形状

「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 土塁状地形へと続く畦道
 城跡台地の東側部分。稜線は西側の土取の影響のために著しく幅が狭められた状態に変貌したため、その地形状からは土塁と表現すべきような延長およそ40mほどの地形が存在。しかし、その南側の宗像神社へ向かうべき尾根筋は台地ごと消失(笑)
謎の土塁状地形(総延長約40m、高さ1mから2mほど)
凸6 宗像神社
 航路の安寧と豊漁を祈願するとされる神社で宗像3女神(タゴリヒメノカミ、タギツヒメノカミ、イチキヒメノカミ)を祀るとされております。
※出典「神社辞典」(1997/東京堂出版)より
神社境内西側の土塁状地形(笑)
神社境内西側の空堀状地形(苦笑)

「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「吉高城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 削平された台地
 かつて吉高城が所在したと推定される宗像神社北側の荒涼とした風景ですが、印旛沼の干拓事業が本格的に開始されたのは終戦後の昭和21年からとのこと。(「佐倉市広報2008年8月1日号」より)
 「利根川図誌」の挿絵が示すように赤松宗旦が訪れたころのかつての地形は、水田の辺りまで印旛沼の岸部が迫り、吉高の台地が半島状に突き出すという、さぞかし風光明媚な光景がひろがっていたものと推定されます。
凸8 東側台地
 手前の部分が宗像神社から続く台地状地形なのですが、その向こう側の小高い台地とは近年における土砂の採掘により人工的にバッサリと分断されておりました。

西側の台地
削平された台地
印旛沼と名峰筑波山
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布報告書1」等を復刻したもの。

■郷土史・歴史関係
「印旛村史」(1984/印旛村)

 そのほか具体的な記述はないが、その時代背景等を理解するうえで、「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)、「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)、「本埜の歴史」(2008/本埜村)、「千葉県の歴史100話」(川名 登 編著/2005/国書刊行会)、「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)などを参考とした。

■史料
・岩波文庫版「利根川図志全六巻」(赤松宗旦/1938//岩波書店)⇒1994年にリクエスト復刊された。
 ⇒幕末の安政年間に完成をみた下総国布川(:現在の茨城県北相馬郡利根町)の医者である赤松宗旦の編纂による地誌。民俗学者として高名な柳田国男が校訂し解題を付したもので、巻末には簡易な索引が掲載されているものの、残念ながら余り詳細とはいえず実用性を欠く。また復刻版であることなどから、全体として印刷自体が些か不鮮明な印象が拭えない傾向にあることは否めない。
「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収し、索引が掲載されていない、図版が更に縮小されているという部分を除けば、上記の「岩波文庫」版よりも印刷も鮮明で遥かに読みやすく、底本は第4巻末に短歌6首と俳句56句が掲載された題名が楷書体の「茶表紙」本によると記されている。
 以下に「利根川」図誌」より抄録するが、用字については原意を損なわない範囲で適宜現代文に改めている。
 「吉高代介城跡 吉高にあり。掛鼻(かけばな)という山の上なり。東に印旛江(いんばこう)を眼下に見下ろし、風景至て美なり。西に御門坂(みかどざか)あり。南に家老内(かろううち)、和田屋鋪(わだやしき)などいう地名今なお存す。そのほか口と唱うる地名甚だ多し。和田口、南口、西口、北口、丑口、坂口、野口、向口、向路口(むかえじぐち)、城田口、殿田口、向田口、鶴巻口、馬草田口等あり。北に船戸...(以下略)」
 また、同書に引用されている「常総軍記」巻20によると、「松虫の陣場」において栗林義長(あくまでも架空の人物とされる)勢の襲来を待ち構える千葉勝胤(1470-1532)勢に吉高代介なる者が記されているが、近世に編纂された軍記物という性格からその信憑性については疑問の余地が大きいものと考えられる。(何れも「利根川図誌」巻4に収録)

■その他
なし

・2009/11/23 HPアップ
・2019/06/18 画像ズレ補正
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