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千葉県八千代市の城館索引へ戻る  熊野神社塁跡郭 熊野神社塁跡 熊野神社塁跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/30のブログ 保品竜害城 米本城 下高野館
所在地
 千葉県八千代市神野(かの)
歴史、人物、伝承

城郭類似遺構か
 現在の新川(印旛疏水路)が大きく180度蛇行する台地先端部に位置し、旧河川の神崎川対岸には船尾城が所在しています。
 これについては「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「熊野神社境内の背後に堀と土橋状の城郭類似遺構が存在するが、とくに城という伝承はない」とし、「千葉から印西へ向かう道の渡河点として古くから交通の要衝であり、城郭遺構があっても不思議ではない」と記されています。なお、この城館名については、誠に僭越ながらあくまでも管理人が便宜上表記したものです。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、郭、土橋?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月30日 14時40分から15時10分
訪城の記録 記念撮影

 土橋状の地形
 「八千代の歴史 通史編上」において城館類似遺構として収録されていることから訪問しました。熊野神社境内北側に続く、玉蔵院境内西側の比高差10mから15mほどの台地先端部に所在しています。
 現存する遺構は屏風のような延長40mほどの土塁と西側に続く規模の大きな空堀跡。仮に郭の存在を想定するとすれば、玉蔵院側の小高い削平地がこれに相当する筈ですが、空堀の規模に比して余りにも狭隘すぎるという印象があります。
 なお台地を区切る空堀内にも土橋状の高まりのような地形を確認できますが、土橋と見るには些か不鮮明という印象というか藪でよく見えません。また空堀に平行する土塁上の狭隘部分に土橋状地形を認めることもできますが、構造的に奇妙な縄張りとなりますので、この地形は寧ろ小口乃至は土塁の一部が崩落したと見るべきなのかも知れません。さらに北側土塁先端部の空間を土橋と見ることも可能ですが、後世の耕作などにより地形改変が顕著となりかなり曖昧な空間となっています。
 また熊野神社との間にも小口部分を含む土塁の存在を認めることができますが、神社境内の普請との判別が難しいものと考えられます。                                ( 2010/03/25 記述 )

熊野神社塁跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
熊野神社塁跡 −画像A−
( 2009/03/30 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお概念図は「電子国土」などの地形図を元に現地にて目測により作成したものです。このため不正確な部分が多く含まれていることをお詫びいたします。

熊野神社塁跡の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
五位山玉蔵院と神野公会堂(公民館・集会所) ⇒ 画像クリックで「神野地区」の案内図へ
熊野神社塁跡東側の郭状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 五位山玉蔵院と神野公会堂(1-1)
 画像左が真言宗五位山玉蔵院で、右手の建物は地元の神野公会堂。子どもたちの遊び場を兼ねた場所で、折から地元ボランティアの方々による巡回パトロールの最中でもありました。このため愛想を浮かべつつ会釈をして、暫くの間は摩耗して殆ど見えない分厚い下総型板碑(1-2)及び当該解説板(1-3)を眺めることに。
 肝心の遺構は画像左手の熊野神社(1-4)が所在する台地上に所在しています。
凸2 東側の郭状地形(2-1)
 この画像が、台地を削平したものと想定される郭状遺構(2-2)で、小祠の脇には歴史を感じさせる五輪塔も所在し、画像左手には大規模な土塁状地形(2-3)も確認できます。なお、右側の台地下に見える寺院は五位山玉蔵院の本堂で比高差は7m足らずというところでしょうか。
 また土塁の最上部(2-4)とこの削平地の比高差は最大で3.5m前後はありますので、台地麓部分との比高差は凡そ10m以上となるはずです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係


■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
 江戸時代は佐倉藩領で村高は「元禄郷帳」によれば106石。明治初期に編纂された「旧高旧領取調帳」では159石余。慶長7年(1602)の検地では田、7町9反余、畑、3町2反余(「土井家文書」⇒神野地区の現地案内図には、現在でも土井姓のお宅が目立ちます。画像1-5)と記録されている。
 また文和2年8月28日(1353)に発給された幕府御教書に「下総国臼井庄星名郷内神村」との記載があることから、現在の「神野」に比定できるものと考えられます。
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)

■史料

■その他


・2010/05/09 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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