凸16世紀初期頃の城郭か この城跡は中世には「星名」ともいわれた印旛沼放水路(新川)左岸に所在する台地一帯であり、干拓された耕作地がその北部から東部に展開している。南南東約900m付近には先崎城が所在し、「元禄郷帳」による村高は417石余とされている。 「八千代の歴史(上巻)」では、「りゅうげ(竜害)」の地名が遺された台地地形であることから、印旛沼の水運を監視する役割を担った恒常的施設であったことを想定し、さらに16世紀初頭における臼井氏と千葉氏の相克をその築城に至る背景として示唆しています。
凸 印旛沼方面を俯瞰する台地 八千代市少年自然の家の建物から直線にして200mほど南東方向にすすんだ印旛沼方面を東方に俯瞰する台地の先端部に所在しています。 竜害城とはいっても、その実態は高さにして僅か約1.5mばかりの耕地のなかの段差で、かつその「土塁状地形」も延長距離にして僅か約30mほどあるかないかなのであります。なお、よくよく観察すると、崖線に沿って僅かに盛土があるようにも見えるのですが、冷静に考えれば耕作に伴う土寄せのようにも見えるのでありました。 たまたま軽トラックで、おいでになった畑の所有者と思しき地元の方と遭遇し、ここで念のため伝承地名などの確認させていただきましたが、「八千代市史」に記述されていた以上の情報は得ることはできませんでした。
・いつもガイド の案内図です