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千葉県八千代市の城館索引へ戻る  下高野館遠景 下高野館のバナー 下高野館の小祠
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/30のブログ 保品竜害城 米本城
所在地
 千葉県八千代市下高野字天神
歴史、人物、伝承

千葉氏系統の小城館か
 「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「仮称下高野館」として掲載されています。その明確な歴史的経緯については不明とされていますが、印旛沼へ続く小竹川を俯瞰する台地上に位置し麓に所在する旧家の名称などから千葉氏系統の小城館と推定を行ったうえで、臼井氏、その後の臼井原氏の家臣が拠る一支城という可能性を示しています。
 また低地を挟んで東方約500mの台地上には先崎城が所在していることから、その関連性を深さを示唆しています。

確認可能な遺構
 土塁、郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月21日 16時20分から16時50分
訪城の記録 記念撮影

 台地先端部の遺構
 台地の南東端に小祠が祀られた小規模な土塁地形に囲まれた小郭が台地辺縁部に所在しています。また下高野の「北野天神」(天満宮)(1-1)境内が台地の基部(台地狭隘部)に所在しており、当時においてはこの辺りにも空堀や土塁などの防御施設が構築されていたものと考えられますが、現在の神社の土塁や参道などの整備により地形判別が難しくなっておりました。また天満宮には「堀に落ちた武士の兜を拾い上げて祀ったと伝承の残る」「甲人大明神」(かぶとだいみょうじん、1-2)という祭神が合祀され、中世城館との関わりを暗示しています。
 台地先端部の遺構は、南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道で北側は小郭を隔絶する土塁跡と思しき地形が明瞭に残存していますが、 単郭としては余りに狭隘に過ぎる向きもあります。かといって複郭の形態を具体的に想定するには、耕地化(確か梨畑だったかと記憶)による地形の改変が大きく、日没までの時間の制約もあり天満宮との間の地形の想定は困難でありました。

( 2010/03/31 記述 )
下高野館 ⇒ 画像クリックで拡大します
麓に旧家が立ち並ぶ下高野館の遠景 −画像A−
( 2009/03/30 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「電子国土」等の地形図を参考にして現地作成していますが、おぼろげな記憶を頼りにしているところもあり極めて不正確なものです。

下高野館の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
下高野館台地先端部の小祠 ⇒ 画像クリックで拡大します
下高野館台地先端部の郭跡と堀底道(推定) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 土塁上の小祠
 武蔵型板碑の小片らしきものも散見される土塁上の小祠(祭神不明)。画像右側が郭内ですが、大きめの腰郭ほどの規模しかないことから、この祠が祀られている向こう側の果樹園(たぶん梨畑と記憶)を中心に主郭のようなものが存在していたと考えたいところです。
凸2 下高野館郭跡と堀底道(推定)
 画像中央部の平坦地が左手の土塁により遮断され、やや不整形な小郭状の地形を形成しています。
 また、画像右下が堀底状の道となって麓の旧家まで続きいていますが、堀底道であるのか耕作等のための生活道路であるのかは不明です。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)

■史料

■その他


・2010/05/07 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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