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千葉県柏市の城館索引へ戻る  南西方向から眺めた鹿島城跡 鹿島城のバナー 北東方向から眺めた鹿島城跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/02のブログ 箕輪如意寺城 箕輪城 大井追花城戸張城
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)岩井字向山
歴史、人物、伝承

経緯不詳の中世城郭
 鹿島城址の立地については、「城址は染井入落の流れに沿って、東に向かって突出した標高21m、比高差15mの舌状台地にあり、面積は59アール。城址の北側と鷲野谷台地との間に入谷津が北西に向かって斜めに浸入し、その先端は二つに分かれ、字城山の東・北側に達している。城址地域は土砂採取により大部分は破壊されているが、その一部は岩井地区から続く台地と切り離され孤立して残っている(昭和53年11月現在)」と記述されています。(「沼南町史」(1979)より)
 また、同書は西側に隣接する字城山(じょうやま、しろやまとも)には、中世初期の館の存在を窺わせる立地条件等があること、鷲野谷地区の字松葉(⇒的場の転訛か)、元屋敷と至近距離にあり、鹿島城築城時の目的を推測する場合の重要な参考となることなどを示唆しているが、その歴史的経緯については委細不明のようです。
 なお、岩井地区には城館関連地名としては駒込(まごめ)、馬場口、出口、舛形などの地名も残されているという。

確認可能な遺構
 なし(1970年代に消滅)、台地の一部のみが現存
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年12月2日 14時25分から15時10分
訪城の記録 記念撮影

 台地ごと消失した城跡 ( 2010/08/14 記述 )
 1970年代の土砂採取により、概ね台地ごと消滅してしまった文字通りの城跡です。現在は野球場と資材置場となった辺りを中心として存在していたものと推定されます。城跡らしさは北側の水路の曲折と僅かに残された台地の稜線が、当時の面影を残すのみなのでありました。
 「沼南町史第一巻」(1979)によりますと、町史が刊行される直前の1978年11月現在において、「築城遺構の一部と考えられる空堀址が南側断崖上に確認されていたが、その他の遺構はし多郭の形状を確認することができない」旨が記されています。その時点よりさらに30年以上の年月が流れ更に遺構の確認は困難となってしまっている様子でした。
 なお台地の稜線の最高地点付近には、道標を兼ねた幕末もしくは明治初期頃に建立されたものと推定される庚申塔とこれに伴う庚申塚が一基所在しておりました。西は松戸・流山道、東は金山・(鹿嶌か?)道と刻印され、僅かに近世頃からの歴史的経緯がありそうな古道としての景観が残されているのみでありました。手賀沼の干拓工事が進む以前の時代には重要な東西の集落間を結ぶ陸路往還であったものと解されます。

かつては鹿島城が所在したという台地の遠景
鹿島城遠景(画像左側の台地付近) −画像A−
( 2009/12/02 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「電子国土」などの地図情報を参考に現地にて作成したものです。

鹿島城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
土砂採取により消滅した台地北東部
台地南西部の平坦地 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 消滅した台地北東部(1−1)
 台地手前に少年野球用のグラウンドが2面、その北東側は建設会社の資材置場となり城跡の面影は見られず、眼前にはひたすら茫漠とした景観だけが広がっておりました。
⇒沼南高校の校庭の一部となっている台地南西部の谷跡(1−2)
 
凸2 台地南西部の平坦地
 城跡の南西部に細長く残された雑木林が叢生する台地の南西部には人工的な削平地とも思われる平坦地を認めることができます。
 往時の縄張図なく、も自然地形とも考えられるこの地形が、鹿島城に関連するものであるのかについては確証を持つには至りませんでした。

庚申塔と庚申塚の全景
道標を兼ねた庚申塔⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 庚申塔と庚申塚の全景(3−1)
 台地山中の最高地点に忽然と現れる土塁状地形ですが、その現状から推定するに庚申塔の建立に伴う庚申塚として捉えるべきでありましょう。
 手賀沼の干拓工事が進む以前の時代には重要な東西の集落間を結ぶ陸路往還であったものと解されます。
東金山、鹿嶌?道と記された道標兼用です(3−2)

凸4 道標を兼ねた庚申塔(4−1)
 道標を兼ねた幕末もしくは明治初期頃に建立されたものと推定される庚申塔です。
西松戸・流山道(4−2)と刻印され、僅かに近世頃からの歴史的経緯がありそうな古道としての景観が残されておりましたが、かつての城跡は交通の要衝を抑える目的もあったものと捉えるべきなのでしょうか。

野球場の案内板
北東側からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 野球場の案内板
 鹿島城跡の東麓付近に立てられている城跡とは無関係の少年野球場の案内板。
凸6 北東側からの遠景
 北東のにある坂道の途中から撮影したもので、台地下を流れる細流(「染井入落」)と辛うじて残されている台地の原型により城跡の名残りが偲ばれます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料

■その他


・2010/08/14 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
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