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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  ジョウビョ ジョウビョ ジョウビョ
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/18のブログ 立城 松虫陣屋 吉高城
所在地
 千葉県印旛郡印旛村瀬戸字立
歴史、人物、伝承

城峠の転訛か
 松虫陣屋東南東約1.2kmの台地状に占地し、南南東300mには立城の土塁遺構等が所在し、「印旛村史」によると立城以前の時代を想定した居館の存在について示唆しています。なお、通称名である「ジョウビヨ」については、古道が続く当該地形の特徴とこの地域の地名の転訛傾向などから判断して、便宜上漢字の表記については仮に「城峠」(ジョウビョウ)ではないのかと想定してみました。(※この事例としては、「中峠城」(ナカビョウジョウ)、「稲荷峠」(トウカビョウ)等があります)
 北東側に面した台地の切れ込み部分等については、印旛沼干拓事業自体が古いものでは享保年間に遡るため、近世以降の印旛沼干拓事業の際の土取り跡なのか、元来の地形なのかという点については即座には判別し難いものがあります。
 郭内には地元の旧家と推定される片野氏の墓所ならびにその氏神と思われる八幡神社の小祠が所在しています。このことから片野氏一族との関係が想定されますが、片野氏そのものの足跡も口碑として伝わるのみなので、その詳細は不明というべきなのでしょう。

確認可能な遺構
 土塁?、郭?、空堀?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月18日 11時35分から13時00分、2010年1月23日再訪
訪城の記録 記念撮影

 土塁のようで土塁でなく
 近接する立城とは異なり、下記の土塁状地形を含む一連の遺構の性格については、必ずしも明確とは言い難いものがあります。墓地が所在する削平地は土塁上部よりも最大で4mほど下位に位置し、北西部分ではどうにか空堀跡を伴う土塁地形を確認できます。また土塁幅も北東方向に進むに従って次第に広がりを見せ、最大で8mから10mにも達してしまいます。さらに北辺部分では後年の地形改変が想定される崖線のラインと重なり合うために、外部の塁腺自体を追うことが困難となってしまいます。
 南西部と北東部で小口状の土塁の切れ目が確認できますが、この地形自体も後世の耕作などによる地形改変の可能性も想定されるため遺構として把握するには無理があるのかもしれません。
 なお台地北方では松虫陣屋と同様に北総鉄道の延伸工事が進捗中ですので、近い将来にはこの辺りの環境も大きく変貌していく可能性もありそうです。既に南西部では人の手が入り、鉄塔(電波塔ないしは高圧送電線鉄塔か)の建設準備等と思われるテープ囲いが設置されておりました。

( 2010/01/26 記述 )
「城峠」(ジョウビヨ) ⇒ 画像クリックで拡大します
ジョウビヨの郭内?
( 2009/03/18 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)この「概念図」については現地情報に基づき作成していますが、あくまでもかなり大雑把なものです。

城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
八幡神社の小祠 ⇒ 画像クリックで拡大します
北西土塁の南西先端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 八幡神社の小祠
 この八幡神社の西側に片野氏の菩提寺として東啼山光明寺が所在したと伝わるそうですが、確かに小規模な寺院を構えることができる平坦地が所在していました。
⇒半世紀ほど以前に利用されていたと推定される崖線中腹の古道
⇒八幡神社北側の土塁状地形
同上の地形
凸2 北西土塁の南西部先端
 北西部の土塁の一部は空堀の延長線で分断され幾分高さを増しているようにも見えますが、分断された個所が小口とみるのかどうかを含めて判断に苦しむ地形です。
空堀状の僅かな窪み

北辺部の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
北東方向からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北西角付近の土塁
 こうして見る限りでは確かに土塁のように見えるのですが、この人工的な部分が郭内側となっていることと、外部のラインが北西の一部を除くと殆ど読みとれないということが遺構の性格を判断するうえでの障害となっています。
北西角付近の土塁
同上
⇒5m前後の高さで切り落とされた南東の崖線部(後世の地形改変か)
凸4 北東からの遠景
 画像奥の小高い部分がジョウビヨが所在する台地ですが、その右側に所在する台地とは明らかに半ば隔絶したような構造形態となっています。
 明治初期に作成された迅速図等によって確認することができれば、多少の事情が判明する可能性もありますが、仮に明治期以前の地形改変に伴うものだとするとほぼ手がかりが無くなりそうです。
郭内と想定される削平地(墓地)へと続く山道
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版 ※記載なし

■郷土史・歴史関係
「印旛村史」(1984/印旛村)

■史料


■その他

・2010/01/26 HPアップ
・2019/06/19 画像ズレ補正
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