千葉県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
千葉県四街道市の城館索引へ戻る  福星寺館の空堀 福星寺館バナー 福星寺館
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/12のブログ 中台城 和良比堀込城 東作城
所在地
 千葉県四街道市吉岡字下夕山
歴史、人物、伝承

複数の出桝土塁を遺す城郭
 「千学集抜粋」にある天文19年(1550)に行われた千葉妙見宮遷宮の記事中には臼井の一門、志津の御門」として坂戸・小船木・栗山・山梨・蕨の各氏とともに「吉岡」の名が記されていることから、臼井一族である吉岡を名乗る一族が在地領主として支配していたものと推定される。
 またその後16世紀後半からは原氏の台頭による臼井氏一族の衰退を背景として改修を重ね、臼井城の支城として機能したものと考えられている。(「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)、「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)等より)
 なおその呼称については福星寺館(ふくしょうじやかた)とされることが多いが、構造・形態からは城郭と呼ぶ方が相応しく思われたので敢えて「福星寺城」とした。

確認可能な遺構
 郭、土塁、空堀、出桝状土塁、櫓台、外桝形、土橋ほか
文化財指定
 四街道市指定史跡 1983年4月15日指定 
訪城年月日
 2009年4月12日 11時45分から12時45分
訪城の記録 記念撮影

 見事な工夫の跡が残る城郭 ( 2010/08/04 記述 )
 名称は「館」とされていますが、5か所ほどの出枡型土塁(櫓台か)を伴った戦国末期の城郭と推定されているように規模は小さい方ですが城郭と呼ぶにふさわしい構造を遺しています。主郭土塁外部切岸の高さは現状でも8mを超える個所が散見散見されるとともに、その堀幅も西側では上面で最大20mほどにわたる個所も見受けられる堅城です。
 反面内部は主郭のみの単郭形式で、どう多く見ても約200名ほどが守りにつけるかどうかという規模に過ぎません。防御に格別の工夫を凝らした跡が窺える半面、このように郭内部の面積が約2千平方メートルと大変にコンパクトであるというアンバランスがあり、果たして何時の時期に何を誰の手によって守ろうとしたのかという点について謎が深まります。
 また城跡の南側には時代背景の詳細については分かりかねますが、家臣団の屋敷跡とも考えられるような直線型の土塁群が明瞭に遺されています。

福星寺館の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
福星寺館の空堀と出桝型土塁の切岸並びに土橋
( 2009/04/12 撮影 )


(注1) 「矢印と画像番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)および、「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)掲載の略測図等を基本にして必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

福星寺館の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
小口推定その1 ⇒ 画像クリックで拡大します
折歪を見せる土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 小口その1?
 南側小口と推定される個所で土塁折による横矢によって防御されています。この個所を奥に進むと画像「8」の外桝形の個所に続きます。
凸2 折歪を見せる土塁と空堀
 画像右側が郭側で、両側から土塁の切岸が迫り、堀底道は桝形土塁に沿って進むように工夫されていることが分かります。

北西角付近の高土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
北辺の空堀と出桝状の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 北西角付近
 現在の堀底からでも8m近くの高さを伴う個所のひとつですが、土塁上から堀跡に降りる踏み跡も見受けられます。但しこれは当時のものではなく後世の人々の通行により形成されたものであると思われます。
凸4 北辺の空堀と出桝状の土塁
 画像右側が主郭の土塁の切岸で、直接上るには骨が折れます。現状では孟宗竹に掴まれば這い上がれないことはなさそうですが、往時においては捉えどころのない斜面であったものと考えるのが自然で、四百数十年の後にも正にとりつく島がない急斜面を保持しておりました。

北辺空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
北辺土塁上部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 北辺空堀
 おおむね画像「4」の個所を反対側の東側から撮影したもので、画像の左側が郭内に相当します。このように西側と北側の空堀には太い孟宗竹が繁殖し地形の現状を保全するとともに闖入者(見学者)の足元を脅かしておりました。
凸6 北辺土塁上部
 櫓台以外の土塁上のスペースは比較的狭く思われ、目測では幅約3mほどの広さしかありません。また断面の形状は蒲鉾型を呈し、それほど平坦な形状でもありません。

東辺土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
外桝形付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 
 東辺の土塁は後世の人の通行の便を図るため土塁の切り崩しなど地形改変による破壊の跡と見られる景観を呈しております。また東側は宅地化などにより本来あるべき空堀の痕跡などは認められませんが、全体としては良く保存されてきたと評価すべきでしょう。
凸8 
 画像「1」の南側に続く画像中央部の小口前方とこれを防御する外桝形と目される付近の状況ですが、現状の地形からはやや分かりにくくなっているようです。
 桝形を構成する土塁も宅地境の樹木等の影に隠れがちで、なんともしまらない画像となってしまいました。

小口その2? ⇒ 画像クリックで拡大します
城跡南方の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 
 画像右手の櫓台状の地形(近世以降の山岳信仰の石碑などが建立されています)が所在することから、小口のひとつと見ることもできそうですが、画像左側の土塁の破壊跡を含めて近世初期の寺院の建立等に伴い地形改変が行われた可能性も捨てきれないものと考えられます。
凸10 
 福星寺館の南方を東西方向にのびる土塁で総延長は約50m、高さ1m前後の規模を有しています。
 城館跡との関連も想定されますが、帰農後における近世の屋敷境の土塁である可能性もあり、その時代背景も含めて推測の域を出るものではありません。

南北方向の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
もうひとつの土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 
 画像「10」の東端から南へ伸びるもので、土塁としての規模は概ね同様で延長距離は約30mほどですが、画像の手前辺りから規模を縮小した形で更に50mほど続いている様子が窺えます。
凸12 
 画像「10」の土塁の東端から幾分喰違い状に東西にのびているもので、総延長は約50m、高さ1mほどを有しています。これらの土塁群は家臣階層の屋敷跡と見ることもできそうですが、その時代背景などの詳細については不明です。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
 
「城郭と中世の東国」(千葉城郭研究会編/2005/高志書院)
 ⇒197頁に「縄張図」及び臼井原氏による影響支配の想定に関する記述が掲載されています。
■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
千葉県印旛郡誌上巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)
 ⇒福星寺館そのものに関する記事はないが、福星寺の創建時に関する伝承記述がある。これによれば不動院如来山福星寺は新義真言宗豊山派に属し、金光院の末寺として元和2年(1616)4月権僧都宥照が開山した旨を伝えている。
■史料


■その他


・2010/08/05 HPアップ
・2019/06/25 画像ズレ補正
トップ頁へ 千葉県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動