凸資料不足.. 下記の関係資料によれば戦国時代後期の遺構と推定され、別名を「東作遺跡」ともいう程度の事しか記載されておりません。なお東作の字名は鹿渡東作とは別の地名であり、中台城の名称も所在している地名に因むものと推定されますが、その歴史的経緯については何分にも資料不足のため分かりません。
凸 能力の限界を露呈 東西約40m、南北約25mほどの方形土塁に囲まれた単郭を中心として、喰違い小口、枡形小口、二重堀、櫓台など多くの遺構が現存。そうした事情もあったようで、珍しいことに更新作業の一年以上も以前に訪れた城郭であるにもかかわらず、その折に撮影した25枚ばかりの画像の殆どを記憶しておりました。 しかし残念なことに南西方向の市道拡張工事が予定され、近々その一部は消失する運命にあったとの情報。このため消失直前の旧状を目のあたりにすることができた幸せを噛みしめつつも、数多の遺構の存在を目の当たりにして次第次第に縄張り図もどき作成作業に混乱の度合いが深まってゆく管理人でありました。その後諸事情により、再訪を果たしてはおりませんが消失部分の確認を含めて四街道方面では有力な再訪候補のひとつでもあります。
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