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千葉県四街道市の城館索引へ戻る  東作城西側の空堀跡 東作城 東作城東側の空堀跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/12のブログ
所在地
 千葉県四街道市鹿渡
歴史、人物、伝承

戦国期前半の城郭か
 鹿渡城の南南西約300mの丘陵上に所在する中世城館跡ですが、鹿渡城と比べ郭主郭、堀幅等の規模も比較的小さく余り複雑な縄張り構造を持たないこと、鹿渡の集落の東側の丘陵上に隣接する位置関係となっていることなどから当地の在地系の領主層によるものと見ることもできますが、あくまでもその詳細は不明な模様です。
 なお千葉氏系図中に臼井一族として鹿渡太郎、小太郎の名が見えることから鹿渡城との一定の関わりのあることが想定され、戦国期におけるその支配動向については臼井原氏などの影響下におかれていたものとも考えられますがその確証もありません。
 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」では時代背景を戦国時代前期のものと記しています。

確認可能な遺構
 小口、土塁、空堀、郭、腰郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月12日 13時15分から13時50分
訪城の記録 記念撮影

 竹林に隠された至宝
 この城郭はご多忙の中をわざわざ地元の研究者の方にご案内をいただいたものです。この日はこの後でこれ以外に合わせて6か所ものご案内いただきました。ただひたすらに感謝を申し上げます。
 小ぶりで直列、複郭で構成される鹿渡城と同じ台地上に所在する城郭です。鹿渡城の南南西約300mの地点に所在することからその背後を固める役割も考えられますが、規模と構造から見る限りでは年代に差がありそうにも思えます。台地の形状から南北方向を軸とした城域を示していますが、管理人の要領が芳しくなく最後まで全体の規模が掴めずじまいのままでありました。加えて「縄張り図もどき」を描く習性が付き始めていたために、忽ちほかの2人の行動に対して明らかな遅れを見せ始める管理人なのででありました(^^ゞ

( 2010/07/10 記述 )
東作城主郭東側の空堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
埋没等により帯郭のようにも見える東作城主郭東側の空堀跡
画像−A−
( 2009/04/12 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については現地で走り書きした自分のメモに基づくものですので、かなり不正確な要素を含んでいます。

東作城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
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凸1 腰郭(1−1)
 鹿渡の集落側に大きく開けた入江状の低地に向けて削平された幅15m、奥行10mほどの半円形のもので、川船の船着き場、或いはそれらに類するような場所として利用された可能性などはないものかとも。
凸2 主郭西側土塁(2−1)
 孟宗竹等の生育が極めて旺盛なため肉眼では明瞭に視認できる主郭内側の土塁(延長約20mほど)なのですが、昼なお薄暗い環境での撮影のためこのような竹薮画像と相成りました。郭内から観察できる明確な土塁はこのほかに北辺部分(2−2)にも見受けられます。

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凸3 主郭西側土塁(3−1)
 主郭西側の折歪を確認できる土塁と空堀で、現状の堀底からの高さは最大2m以上。経年の堆積物にによる埋没は少なくとも1m前後と想定され、土塁の流出を考慮すれば比高差4m前後の切岸を伴う威容を誇っていたものとも推定されます。
凸4 主郭北西部小口(4−1)
 主郭北西部に所在する小口部分で現物はもう少し明確な地形を呈しているのですが、こうして見ると僅かな土塁ラインの窪みのようにしか見えず...なお遺構の現状から明確な小口として確認できる個所はこの部分だけのように思われました。

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凸5 主郭北側空堀(5−1)
 主郭部(画像右側)と北の郭(2の郭)を隔てる平均背丈ほどの深さの空堀なのですが、このように改めて画像を並べて見ますとと何れも同じような地形に見えてしまい一年以上の歳月のブランクとも相まって、そのHP編集は愈々難航を極めてくるのであります。
凸6 主郭南東部の腰郭(6−1)
 主郭南東部に所在する2段に分かれる腰郭の上段部分(およそ幅10m×奥行5mほどの半円形)で、画像の左側にも下段部分の腰郭がほんの僅かに写り込んでいます。

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凸7 主郭南側空堀(7−1)
 主郭の周囲は概ね東側を除いて空堀の存在を目視することができます。
 主郭をほぼ全周している空堀の南東側には「画像凸6」の2段の腰郭状地形を認めることができます。
凸8 北の郭(8−1)
 主郭の北側に続く楕円に近い形状の郭で「2の郭」に相当する30m×20m前後の規模を有しています。周囲を取り巻く土塁については、郭内では大分地形の埋没等が進んでいるようで高さ50cmに満たない個所も散見されますが概ね郭を全州しています。
 ただし明確な小口跡が見出せませんので、後世の地形改変等も想定されます。

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凸9 不動堂の集落へと続く山道(9−1)
 鹿渡集落に所在する不動堂へとつづく下りの山道で、東作城自体は鹿渡集落の東側の丘陵上に所在しています。また同集落の大半は概ね水害のリスクの無い丘陵上、或いはその中腹に所在しています。
凸10 北側尾根筋の腰郭群(10−1)
 「北の郭」の北側には、「3の郭」といってもよさそうな「北の郭」とほぼ同様の規模を有する人工的な削平地が所在し、東側には2段ほどの腰郭が付属しています。
⇒東側へと続く腰郭群れのうちの最下段の腰郭(10−2)でその直下には小名木川沿いの南北方向に細長い谷津田が展開しています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

■郷土史・歴史関係
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料


■その他


・2010/07/10 HPアップ
・2019/06/25 画像ズレ補正
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