凸 まずは登り口探し
JR草津線油日駅を下車したあと、和田集落の北側から順番に殿山、殿山城、公方屋敷支城、公方屋敷と計4か所ほどの城館跡を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まではすでに2時間余りとなってしまいました。このため水分補給対策を疎かにし脱水症状気味でもあったことから、この際は取敢えず和田支城の「3」と「2」をパスする可能性も含め後回しとして、和田城館群では最も南側に所在している市史跡指定の和田城へと向かうことにしました。
市指定史跡でもあり足利義昭の大和からの脱出に関わった有名な和田氏の本城とも考えらているように、一般にある程度は有名な城館です。しかし今回の探訪以前に収集できた出版物などの情報に限れば、その登り口については余り明確とは云えないような状況でした。むろん比高差も少なく、それほど山深くもない地域ではありますが、麓に所在している民家宅地などへの配慮もあるので、何処から登ってもよいというような訳でもありません。そうなりますと頼りになりそうなのはできるだけ新しいネットからの諸情報ということになるのですが、残念ながらこれも十分に把握するまでには至りませんでした。またようやくようやく現地で入手した「和田城館群パンフレット」でさえも、既に数年前に印刷されたものであり、肝心の登り口に関する情報は掲載されてはいませんでした。こうしたこともあり、地形や縄張りから想定される幾つかのルートのなかから、取り敢えずは南麓の民家脇からのルートを辿ってみることにしてみました。
甲賀市の史跡指定を受けいてるだけのことはあり、公方屋敷支城や殿山城などとは異なり、最低限の草刈りなどの管理が行われている形跡があり、全体的な遺構観察は比較的行いやすい環境でありました。なお、漸く帰路になってから気がついたことなのですが、どうやら本来の登り口は北東方向の水田畦道からアプローチするのが正規のルートのようでした (^^ゞ なお上記の「和田城館群パンフレット」と現地に設置されている「和田城館群に関する解説版」との間にはやや異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われました。
( 2018/2/27 )記述
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和田城遠景 −画像A−
( 2017年12月10日 撮影 )
和田城の北西側方向から撮影した遠景です。かつては北西ないしは北側からもアプローチできるようなルートも存在していたようですが、その間には和田川やその支流である水路が介在していることもあり、現在ではこの方面からのアプローチは事実上困難であるように感じました。なお、この撮影地点の背後には「和田支城1」が所在しています。
和田城南西虎口 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
主郭内部から南西虎口と西側土塁および南側土塁(画像左側)を撮影したものです。12月中旬でもあり藪自体は少なく見通しにそれほどの支障はありませんでしたが、常緑低木や笹が少なくないことから遺構に関してはこの虎口付近が最も写真写りが良さそうな印象でした。
主郭部西側土塁 −画像C−
( 2017年12月10日 撮影 )
西側土塁の切岸部は緩斜面に近くそのまま西側の腰郭状の削平地へと続いているという印象でした。
主郭南西虎口 −画像D−
( 2017年12月10日 撮影 )
大堀切方面から主郭南側土塁を直線で横断し主郭部削平地(画像の奥の方)に到着し、そこから南西虎口方面へと移動して撮影したものです。
主郭南堀切 −画像X−
( 2017年12月10日 撮影 )
深さは最大5メートルから6メートルほどでその堀幅10メートルくらいの規模がありますが、往時とは異なるようで現在は斜面の角度はやや甘くなっており、その横断に際してはストック1本で簡単に上り下りができてしまいましたのでやや拍子抜けのような印象もありました。経年の変化や後世の植林などに伴う地形の改変などが影響しているのかも知れません。
和田城の現地解説板 −画像E−
( 2017年12月10日 撮影 )
和田城館群の中心的な城とする見解が示されてはいますが、城域外と評価されている南側鞍部以南を除くと土塁規模の大きさを除けば、格別城域が広くは無くまた和田谷の最奥部でもあることから寧ろ伊賀方面への気配りも感じられなくもありません。
北東麓の和田城縄張図 −画像F−
( 2017年12月10日 撮影 )
この案内図からは現地の地形に照らしその現在地や登り口情報などが得られるのですが、この北東麓の場所まで来ないことにはこうした情報が得ることができないという矛盾を感じるのでありました ^^
和田氏に関する解説板 −画像G−
( 2017年12月10日 撮影 )
凸
和田城館群と和田城の位置とその登り口 −画像J−
( 2017年12月10日 撮影 )
やや登り口が分り辛かったこともあり、画像では登り口の位置を付記させていただきました <(_ _)> この文化財説明板では、あくまでも「棚田山城」と「公方屋敷城」の2か所が含まれています。和田城の東麓市道沿いに設置されている現地説明板の画像を部分拡大したもので、平成22年度(2010年度)の甲賀市教育委員会による「里山・遺跡のコ・ラ・ボ(木・愛)」事業により整備設置されたことが付記されておりました。この説明板は和田支城1の付近にも設置されており、良く目につくのですが棚田山遺跡と公方屋敷城遺跡を含む9か所が表記されています。
しかし一方、ほぼ同時期に刊行された「和田城館群−甲賀の城郭1」(2011/甲賀市※現地配布パンフレット)には、棚田山遺跡と公方屋敷城遺跡の表記は無く、この2か所については中世城館跡としての範疇からは除外されています。この点については、すでに「甲賀市史第7巻」(2010)の公方屋敷の項末尾において、「従来においてその存在が指摘されていた「公方屋敷城」と「棚田山城」については城郭遺構ではないと判断した」との中井均氏による記述があることから、こうした学術的評価の変更によるものと解すべきなのでありましょうか。
和田城館群について −画像K−
( 2017年12月10日 撮影 )
3行目の「9つの城館跡」という文脈中には、「棚田山城」と「公方屋敷城」の2か所を含めたものです。しかし「甲賀市史第7巻」の公方屋敷の項および「和田城館群−甲賀の城郭1」(現地頒布のパンフレット)においてはそれら2か所については上記の事由により城館跡からは除外されています。
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