滋賀県内の城館跡目次
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月10日のブログ 公方屋敷 殿山 殿山城 公方屋敷支城
所在地
 滋賀県甲賀市甲賀町和田小字柞ヶ谷(こうかし/こうかまち/わた/さくがや)
歴史、人物、伝承

和田城館群の中核とも
 永禄8年(1565)5月三好義継らの軍勢が13代将軍足利義輝の御所を襲撃し義輝を始めとして、その生母慶寿院、弟である鹿苑寺の僧周嵩らを殺害した。後の15代将軍足利義昭となる興福寺一条院門跡(足利義輝弟)は、その後直ちに三好勢力による軟禁状態に置かれたとされる。しかし覚慶は近臣である細川藤孝らに守られ脱出をはかり、まず近江国甲賀和田を目指したとされている。和田地域は当地出身の将軍家奉公衆でもある和田惟政の支配する和田氏本貫地でもあり、覚慶は当地の公方屋敷と伝わる館において約4か月ほどの間無事惟政に匿われたとも伝わる。公方屋敷と同様に甲賀市史跡にも指定されている。覚慶が公方屋敷滞在していた時期は永禄8年7月29日から同年11月ないしは12月までの数か月足らずであるとされており、同地での滞在期間は極めて短いとされている。覚慶はその後も三好勢力から逃れるとともに、新将軍任官の野望を抱きつつ近江国矢島(野洲郡、現在の守山市、和田惟政の所領とも)、若狭武田氏(覚慶の姉妹の嫁ぎ先)、越前朝倉氏とその庇護する諸勢力を渡り歩いた。
 当の和田惟政は織田信長と後の義昭との仲介などの重責を果たし後には高槻城主となり摂津守護のひとりとして義昭の庇護にも活躍したが、元亀2年(1571)に池田親正らとの合戦に敗れ討死を遂げたものとされている。(※「甲賀市史第2巻」より)
 当城を和田氏の主城とする見解もあるが、あくまでもその一族に関わりの深い本貫地ではあるものの、惟政の敗死した時期もその登場から僅かに7年後と短いものであり、また守護としての任地が摂津の高槻、茨木方面でもあったことなどから、当地における惟政の事跡については不明な部分が多いのかも知れない。

確認可能な遺構
 土塁、虎口、郭、腰郭
文化財指定
 甲賀市指定史跡
訪城年月日
 2017年12月10日 13時40分から14時20分
訪城の記録 記念撮影

 まずは登り口探し
 JR草津線油日駅を下車したあと、和田集落の北側から順番に殿山、殿山城、公方屋敷支城、公方屋敷と計4か所ほどの城館跡を探訪し終えた時点で、事実上の日没時刻まではすでに2時間余りとなってしまいました。このため水分補給対策を疎かにし脱水症状気味でもあったことから、この際は取敢えず和田支城の「3」と「2」をパスする可能性も含め後回しとして、和田城館群では最も南側に所在している市史跡指定の和田城へと向かうことにしました。
 市指定史跡でもあり足利義昭の大和からの脱出に関わった有名な和田氏の本城とも考えらているように、一般にある程度は有名な城館です。しかし今回の探訪以前に収集できた出版物などの情報に限れば、その登り口については余り明確とは云えないような状況でした。むろん比高差も少なく、それほど山深くもない地域ではありますが、麓に所在している民家宅地などへの配慮もあるので、何処から登ってもよいというような訳でもありません。そうなりますと頼りになりそうなのはできるだけ新しいネットからの諸情報ということになるのですが、残念ながらこれも十分に把握するまでには至りませんでした。またようやくようやく現地で入手した「和田城館群パンフレット」でさえも、既に数年前に印刷されたものであり、肝心の登り口に関する情報は掲載されてはいませんでした。こうしたこともあり、地形や縄張りから想定される幾つかのルートのなかから、取り敢えずは南麓の民家脇からのルートを辿ってみることにしてみました。
 甲賀市の史跡指定を受けいてるだけのことはあり、公方屋敷支城や殿山城などとは異なり、最低限の草刈りなどの管理が行われている形跡があり、全体的な遺構観察は比較的行いやすい環境でありました。なお、漸く帰路になってから気がついたことなのですが、どうやら本来の登り口は北東方向の水田畦道からアプローチするのが正規のルートのようでした (^^ゞ なお上記の「和田城館群パンフレット」と現地に設置されている「和田城館群に関する解説版」との間にはやや異同があることから、事情を知らない者にとっては混乱してしまう可能性もあるように思われました。
( 2018/2/27 )記述
城 
和田城遠景 −画像A−
( 2017年12月10日 撮影 )
 和田城の北西側方向から撮影した遠景です。かつては北西ないしは北側からもアプローチできるようなルートも存在していたようですが、その間には和田川やその支流である水路が介在していることもあり、現在ではこの方面からのアプローチは事実上困難であるように感じました。なお、この撮影地点の背後には「和田支城1」が所在しています。

城 
和田城南西虎口 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
主郭内部から南西虎口と西側土塁および南側土塁(画像左側)を撮影したものです。12月中旬でもあり藪自体は少なく見通しにそれほどの支障はありませんでしたが、常緑低木や笹が少なくないことから遺構に関してはこの虎口付近が最も写真写りが良さそうな印象でした。

主郭部西側土塁
主郭部西側土塁 −画像C−
( 2017年12月10日 撮影 )
 西側土塁の切岸部は緩斜面に近くそのまま西側の腰郭状の削平地へと続いているという印象でした。

城 
主郭南西虎口 −画像D−
( 2017年12月10日 撮影 )
 大堀切方面から主郭南側土塁を直線で横断し主郭部削平地(画像の奥の方)に到着し、そこから南西虎口方面へと移動して撮影したものです。

城 
主郭南堀切 −画像X−
( 2017年12月10日 撮影 )
 深さは最大5メートルから6メートルほどでその堀幅10メートルくらいの規模がありますが、往時とは異なるようで現在は斜面の角度はやや甘くなっており、その横断に際してはストック1本で簡単に上り下りができてしまいましたのでやや拍子抜けのような印象もありました。経年の変化や後世の植林などに伴う地形の改変などが影響しているのかも知れません。

城 
和田城の現地解説板 −画像E−
( 2017年12月10日 撮影 )
 和田城館群の中心的な城とする見解が示されてはいますが、城域外と評価されている南側鞍部以南を除くと土塁規模の大きさを除けば、格別城域が広くは無くまた和田谷の最奥部でもあることから寧ろ伊賀方面への気配りも感じられなくもありません。

北東麓の和田城縄張図
北東麓の和田城縄張図 −画像F−
( 2017年12月10日 撮影 )
 この案内図からは現地の地形に照らしその現在地や登り口情報などが得られるのですが、この北東麓の場所まで来ないことにはこうした情報が得ることができないという矛盾を感じるのでありました ^^

城 
和田氏に関する解説板 −画像G−
( 2017年12月10日 撮影 )

城 
和田城館群と和田城の位置とその登り口 −画像J−
( 2017年12月10日 撮影 )
 やや登り口が分り辛かったこともあり、画像では登り口の位置を付記させていただきました <(_ _)> この文化財説明板では、あくまでも「棚田山城」と「公方屋敷城」の2か所が含まれています。和田城の東麓市道沿いに設置されている現地説明板の画像を部分拡大したもので、平成22年度(2010年度)の甲賀市教育委員会による「里山・遺跡のコ・ラ・ボ(木・愛)」事業により整備設置されたことが付記されておりました。この説明板は和田支城1の付近にも設置されており、良く目につくのですが棚田山遺跡と公方屋敷城遺跡を含む9か所が表記されています。
 しかし一方、ほぼ同時期に刊行された「和田城館群−甲賀の城郭1」(2011/甲賀市※現地配布パンフレット)には、棚田山遺跡と公方屋敷城遺跡の表記は無く、この2か所については中世城館跡としての範疇からは除外されています。この点については、すでに「甲賀市史第7巻」(2010)の公方屋敷の項末尾において、「従来においてその存在が指摘されていた「公方屋敷城」と「棚田山城」については城郭遺構ではないと判断した」との中井均氏による記述があることから、こうした学術的評価の変更によるものと解すべきなのでありましょうか。

城 
和田城館群について −画像K−
( 2017年12月10日 撮影 )
 3行目の「9つの城館跡」という文脈中には、「棚田山城」と「公方屋敷城」の2か所を含めたものです。しかし「甲賀市史第7巻」の公方屋敷の項および「和田城館群−甲賀の城郭1」(現地頒布のパンフレット)においてはそれら2か所については上記の事由により城館跡からは除外されています。

訪城アルバム
現地案内板 ⇒ 画像クリックで目いっぱい拡大します
凸1 現地案内板
 和田公民館近くに設置されている案内板で、この案内板では中世城館跡について公方屋敷城と棚田山城を除く7か所の存在が記されていますが、方位が画像左側となっていますので、便宜上右下に書き加えさせていただきました <(_ _)>
※画像クリックで目いっぱい拡大します

凸2 和田(わた)
 甲賀(こうか)と同様に、あくまでも地名(大字、旧村名)としての読みについては「わた」と濁らないことから、本来は和田氏に関しても「わた」と読むのが正しいのかも知れません。(※「甲賀市史第7巻」「角川日本地名大辞典25滋賀県」などより)

凸3 バカボン
 バカボンのパパとおまわりさんの標識。

凸4 サザエさん
 主人公の方はやや微妙な似顔ですが。

凸5 ピカチュウ
 むろん交通安全のための手づくり標識です。この個所をそのまま進めば「画像18」の和田城北東からの登り口へと到着します。

凸6 カレーパンマン
 城跡西側の和田川沿いのフェンス付近で撮影。

凸7 南側からのルート
 「画像F」の縄張図にも一部記されている城跡の南側からのルートです。この小さな木橋状の工作物(枕木などの古材か)を渡らせていただき、そのまま道なりに画像左側の民家の脇を抜けて登っていきますと僅か3分足らずで鞍部の溜池の個所に到達します。城跡入口などの表示も無く、どちらかといえば本来は地元の方の農作業や山仕事などのために通行する里道であるように思われました。

凸8 里道
 「画像7」からの続きです。このように民家の脇を抜けていきますので気がひけることこの上ありませんでした (^^ゞ なお里道の先に見えますのは、少し前に流行った太陽光を利用した温水器(太陽光パネルが開発普及する以前の方式)であります。

凸9 溜池と切岸
 画像右側は農業用と思われる溜池の窪地で、正面が和田城の一部とも考えられている郭状を呈する削平地の切岸部分です。堀切地形の反対側に所在していることもあり、後世における耕作や植林などのために人工的に改変された地形である可能性もゼロでは無いようにも思われますが、「甲賀市史第7巻」を始めとして概ね城域の南限として見ているようです。

切岸
凸10 切岸
 ひとつ前の「画像9」の撮影個所からもう少し西側へと移動した地点です。

切岸
凸11 切岸
 画像右端は主郭部との間の堀切です。この地点から目の前の切岸を直登するのには無理があったことから、比較的傾斜の緩い画像左側方向から登ってみました。

削平地
凸12 削平地
 比高差は5メートルから6メートルほどしかないので削平地までは想像していたよりも遥かに簡単に登ることができました。画像の中段に見えるのが主郭部の土塁で、その間に規模の大きい堀切地形が存在しています。

凸13 主郭南側土塁
 画像中央から右側が主郭の削平地となります。

主郭西土塁
凸14 主郭西土塁
 主郭南側土塁方向から主郭西側土塁を撮影しています。手前の窪みの個所が主郭南西部の虎口に相当します。

主郭部
凸15 主郭西部
 主郭西側の腰郭状の削平地が広がる辺りです。

主郭内部
凸16 主郭内部
 主郭土塁の北西隅付近の様子です。

「ひこにゃん」と「くまもん」</b>
凸17 「ひこにゃん」と「くまもん」
 なにやら人生の先行きも見えて参ったようにも思われ、ボチボチ「ひこにゃん」にも対面せずにはなるまいて。むろん「くまもん」にも・・・あくまでも交通安全の飛出し注意と徐行喚起の手づくり標識のようです。

北東登り口
凸18 北東の登り口
 2017年12月現在では、現地の入口案内標識や解説板の存在状況こ鑑みますと、この和田城跡北東の水田畦道からのルートが本来の登り口のようです。画像中段の畦道をすすみ、白い解説板が見える辺りから斜面を登る道がつけられていますので、あとはそのまま道なりに城跡中腹の北側から西側へと廻りこめば「画像D」の主郭南西虎口付近へと到達します。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)
「図解近畿の城郭第4巻」(2017戎光祥出版)※縄張図あり
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)※縄張図あり
「近江の城」(1997/サンライズ出版)
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版)

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻、第7巻、第8巻」(/甲賀市)※第7巻に縄張図あり
「和田惟政と甲賀武士」(2008/和田晋次著)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)※「多門院日記」について

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)
「史籍解題事典」(1986/東京堂出版)※「多門院日記」について

その他
国土地理院地図および航空写真
「和田城館群−甲賀の城郭1」(2011/甲賀市)※現地配布パンフレット(和田公民館下の東側県道沿いに常備)


更新記録
・2018年2月27日 HPアップ
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