滋賀県内の城館跡目次
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月10日のブログ 
所在地
 滋賀県甲賀市甲賀町和田(こうかし/こうかまち/わた)
歴史、人物、伝承

城館の伝承地、油日合戦おける平氏方布陣か
 「日本城郭大系11」によれば、「殿山 平安時代に和田満政(源満政)が築いた山城。遺構は無い」との記述が掲載されているが平安時代の話でもあり些か信じがたいものがある。また源平の戦いのひとつである「油日合戦」の舞台にも近く、同書によると平家方が殿山に布陣したとの記述もあるが、その正否を含め詳細は不明であるものと考えられる。
 なお、同じ丘陵伝いの北西部に所在する近年の調査により遺構の存在が確認された殿山城とは極めて近接している関係にある。しかしこの殿山が別途城跡として扱われてきた経緯があることから、これを便宜上分けて立項したものである。

確認可能な遺構
削平地(郭?) 井戸? 堀切地形
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月10日 10時45分から11時00分
訪城の記録 記念撮影

 殿山と殿山城
 従来は明確な城館遺構が存在していないという見方が一般的でしたが、、現在殿山の遺構と領域に関してはおよそ次の論点があるように思われます。
1.忠魂碑とその周辺の削平地をめぐる評価について
2.そのすぐ北西部に見られる小規模な堀切地形(近年確認された殿山城ではない)の評価
3.近年新たにその存在が確認された「殿山城」と呼称されている北西尾根筋の城館遺構の評価
4.南に隣接している公方屋敷との境界について。
 本サイトではこのうち「3」については便宜上別項として立項しています。その近年あらたに確認された「殿山城の遺構」の方については、丘陵の北麓からでもその成形された郭跡の形状を読み取ることができるほど明確であることに驚きます。以前は植林などによりその形状が覆い隠されていたという背景があるにしても、比高差約10mほどの人家の裏山であることを考慮しますと、そうした存在について認識されることのなかった経緯の不可思議ささえ感じてしまいます。
 また殿山自体にも一応複数の年代不明の削平地が所在し、上記画像のように小規模ながら尾根筋を分断する堀切状地形も確認できます。ただしこの堀切状地形が北西尾根筋に所在している小規模な城館遺構に伴うものであるのか、本来の殿山に属するものなのかは明確ではないようです。さらにこの殿山自体については、さらに南方の公方屋敷遺構とも近接していることから、その範囲を明確に区別することが難しいようにも思われました。
( 2018/2/9 )記述
殿山山頂南東部の削平地
殿山山頂南東部の削平地 −画像A−
( 2017年12月10日 撮影 )
 後世の公園化に伴う地形なのか植林などに伴う地形の改変なのか、城館遺構に関連する削平地等であるのか悩みます (^^ゞ なお、この地形部分は南側の公方屋敷方面の城館遺構の地形に続いています。

殿山山頂部
殿山山頂部 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
 「画像A」の削平地部分から殿山山頂方面を見上げたものです。

殿山の堀切状地形
殿山の堀切状地形 −画像C−
( 2017年12月10日 撮影 )
 北西尾根筋の城館遺構からは約100メートル以上離れた殿山山頂に近い比較的小規模な堀切状の地形です。

訪城アルバム
凸1 油日駅南口
 首都圏近郊私鉄の始発時間の関係から、東京駅到着は午前6時10分過ぎ、東海道新幹線経由で京都駅まで行きJR琵琶湖線で草津まで戻り、JR草津線に乗車し漸く当駅に到着。昨年12月の遠征時にもこの油日方面を訪れていますが、その折には朝から生憎と濃霧が発生しJR草津線は始発から運休となりました。その時に比べれば、この時点で時刻は既に午前10時を大きく回っていたとはいえまずまずの順調な滑り出しに感じました。

凸2 殿山全景
 油日駅方面からの遠景です。この時期は日の出が遅く、日没時刻が早いことこの上ありません。このため城館探訪に相応しい時間は、せいぜい午前9時から午後3時頃までの約6時間ほどになります。先ずは定石通りに和田集落の城館について北側から順番に回遊する予定を立てていました。

凸3 殿山と公方屋敷支城
 画像左側が殿山および殿山城で、右側が公方屋敷支城方面に相当し、真ん中の小高い丘陵は以前には城跡と推定されていた棚田山方面のように思います。
 何れの城館も余り比高差が無さそうなこともあり、この段階では些か甘く見すぎておりました。そのことを身を以て体験するのはこの後で訪れた公方屋敷支城以降となります。この時点では上手くいけば高嶺方面まで足をのばそうなどと、今にして思えば途方もないことを考えていたものです (^^ゞ

凸4 殿山
 次第に「画像2」の殿山に近づいていますが、画像左手にのびる市道には入らずに、そのまま県道51号東湯舟甲賀線を南下します。画像左奥に見える山並みは甲賀(滋賀県)と伊賀(三重県)の境辺りになるものと思われます。

凸5 お城の模型
 県道をそのまま南下していくと、和田(わた)集落の入口近くには手づくり感のあるお城の模型がグランド脇に設置されて、たいへん分かりやすい目印となっていました。この先のY字路で県道から分かれて左折します。

凸6 参道の石段
 「画像5」のY字路の分岐から約100メートルほど進むと、「殿山登り口」記された標柱がありますので、この石段を登ってゆきます。途中で「殿山城」(近年遺構の所在が確認された方)の案内標識が右手に見えますが、まずは本来の殿山方面を目指していきます。

凸7 ひな壇地形
 殿山の北側中腹にはこのようなひな壇状に削平された複数の地形が確認されますが、これらは同所の公園整備に伴い築造されたもののようです。なお道の右端には井戸跡のようなものも確認されますが、その経緯については分かりません。

凸8 忠魂碑
 殿山山頂の忠魂碑(近現代の戦没者慰霊碑)ですが、この削平された地形についても当該公園整備に伴うものであると考えられているようです。

凸9 展望台
 忠魂碑の西側には木製の展望台が所在していました。高さ5m前後の展望台は、体重80Kg超(デジカメ装備一式を加算するとたぶん約90Kg)の管理人が登りますと、やや細めの梯子段全体がミシミシと音を立てるので、特に大柄な方はご注意ください。

凸10 殿山からの眺め
 画像中央やや上付近が油日駅方面に相当するはずです。元暦元年(1184)7月の油日合戦は、「日本城郭大系11」によりますと、この殿山を中心に櫟野川南に布陣した伊勢、伊賀の平氏軍と甲賀市相模付近(画像左手の地平線付近)の櫟野川北岸に布陣した近江源氏佐々木氏との間で戦われ、大将である佐々木秀義が討死を遂げたものの、最終的には源氏方が勝利したとされています。
 しかし「吾妻鏡」「玉葉」「源平盛衰記」などに関連する記述が見られるものの、その合戦の規模や戦場を含めて記述が異なり、客観的な史料にも乏しくその詳細は余り明確ではないように思われます。また、今のところ殿山に布陣したとの記述の出典についても不明なのですが、このように北方の見通しが優れていることだけは確かなようです (^^ゞ
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)記載あり
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)記載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)記載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)記載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版)コースガイド記載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻、第7巻、第8巻」(/甲賀市)
「和田惟政と甲賀武士」(2008/和田晋次著)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)
「現代語訳吾妻鏡第2巻」(2008/吉川弘文館)

その他
国土地理院地図および航空写真


更新記録
・2018年2月9日 HPアップ
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