滋賀県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 滋賀県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
滋賀県の城館索引へ戻る 殿山城の遠景 殿山城のロゴ 殿山城の堀切
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月10日のブログ 殿山 
所在地
 滋賀県甲賀市甲賀町和田(こうかし/こうかまち/わた)小字門田、武蔵
歴史、人物、伝承

和田城館群の一翼とも
 本項は殿山北西部に所在する近年の調査により遺構の存在が確認されたものを指している。むろん従来の殿山城とは直線では約100mほどに過ぎないことから、極めて地理的には近接している関係にある。しかし「甲賀市史第7巻」などによれば、当該殿山城と呼ばれている遺構については、従来の城館伝承地である殿山とは一線を画した取り扱いとなっている。当該名称は現地に設置されている案内標識および「甲賀市史第7巻」などの表記に拠っている。戦国期には和田氏の本拠地でもあることから、和田惟政をふくむ和田氏との関係が想定されるが、同時代の文献史料などからはこれを明確に裏付けるものは確認されていない模様である。
 なお東側山頂部に所在している従来の「殿山」については、「日本城郭大系11」に「殿山 平安時代に和田満政(源満政)が築いた山城。遺構は無い」との記述が掲載されている。しかしこれについては、平安時代の話でもあり俄かには信じがたいものを感じる。また源平の戦いのひとつでもある「油日合戦」の舞台にも近い。同書によれば平家方が殿山に布陣したとの記述もみられるが、引用元も不明でありその正否を含め詳細不明である。

確認可能な遺構
郭、堀切、土塁ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月10日 11時05分から11時30分
訪城の記録 記念撮影

 近年その存在が確認された遺構
 2016年12月に続く滋賀県甲賀市の遠征です。昨年最寄駅から始発の東上線に乗り池袋へ。 山手線経由で東京駅へ向かい、午前6時29分発のぞみ号に乗車。この時点で東上線の始発からは既に1時間半も経過し、乗換待ちのタイムロスは池袋での約15分が一番大きいものがあります。つまりダイヤ上では寧ろ地下鉄丸ノ内線を使用する方が早いのは承知していますが、東京駅構内でのキャリーケース移動距離がやたらに長くなることから、今年は山手線を利用してみたものです。新幹線では昨年同様に一度京都まで向かい、4分間の乗り継ぎで琵琶湖線で草津市内へ戻り駅前のホテルに荷物を預託し、午前9時40分台の草津線にて油日へと向かいました。 1年ぶりに訪れた油日駅では日曜日ということもあり、甲賀忍者に扮した駅業務を委任されている年配の方の歓迎を受けましたが、油日で降りた乗客は自分を含めて数人で、しかも「観光客」らしい姿は自分ひとりと相変わらず閑散とした様子でした。JR草津線も近江鉄道などと接続している貴生川から先では正規駅員は不在で、地元高齢者の方による運営がなされているようで、早朝と夜間は無人となりむろんICカードは使えません。草津市始発の同線は一つ先の「手原駅」で概ねその4割位が下車、その先の貴生川までで更に5割位が下車してしまう様子が窺えます。残念ながらこうして拝見している限りでは終点の柘植まで行く乗客は全体の1割にも満たないようにも感じます。前年が2往復で今回が3往復ですので、大した利用実績にはつながりませんが、たまに沿線を訪れる者にとっても大切な路線です。レンタカーなどの車を利用した方が機動性は発揮できますが、駐車場所探しなどにも苦労しますので、今後もできるだけこの草津線にお世話になる予定です。
 近年において「甲賀市史」編纂などに伴う実地調査により、殿山の北西尾根筋先端部にこの小規模ながらもより明確な城館遺構が確認されました。「忠魂碑」が設置されている従来の殿山とは別の性格の城館跡のようですが、その距離の近さからか、いまのところは取敢えず名称の上ではやや紛らわしい名称が付されています。屋根筋の堀切からそのまま土塁へは直接登ることは難しいと判断し、堀切の南側を少しだけ迂回するようにして対岸へと這い上がり、そのまま土塁上を西へとすすんでから、比高差の少なくなった頃合いを見計らい郭内へと降りてみました。ただしこの郭から下方に降りる踏み跡は、そのまま民家宅地内の裏手へと出てしまいます。このことから、再びもと来た堀切まで戻りさらに尾根筋の斜面を這い上がることが必要です。
 長享期の佐々木六角氏、その後の同名中の形成過程における和田氏拠点防御、織田氏に追われた佐々木六角氏の潜伏、甲賀郡中惣末期の対織田氏対策など、その築城の背景について勝手な想像がひろがりました。
( 2018/2/10 )記述
北側麓から見上げた殿山城
北側麓から見上げた殿山城 −画像A−
( 2017年12月10日 撮影 )
凸城跡の北麓から見上げたもので整形された郭のラインが肉眼でもはっきりと確認できます。いちおう手持ちの資料用バインダーで直射日光を遮蔽してはいますが、生憎と太陽の位置関係上からハレーション気味の画像となっています。

<b>尾根筋を断ち切る堀切
尾根筋を断ち切る堀切 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
 画像左が従来の殿山方面で、右側が郭跡側となります。従来の殿山と呼ばれていた個所から直線にして僅か100mほどしか離れていない城館遺構でもあり、しかも中世城館の著名な密集地帯のひとつでもあることなどを勘案しますと、なぜ今までに未確認(あるいは未公表)であったのか些か不思議な感じもします。一部の愛好家などにはかなり以前から既に知られていた存在であったのでしょうか?現在でも切岸の斜度は45度前後を有しており、木の枝や笹に掴まりながら何とか堀底に降りてみました。

南西方向からの遠景
南西方向からの遠景 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
 一般に公方屋敷支城と呼ばれている城館跡の南東麓辺りから撮影した遠景です。城跡の凡その位置は画像中央からやや左上の丘陵先端部付近となります。

殿山城全景
殿山城全景 −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
 殿山城の西側約150m付近に所在している公方屋敷支城の藪と格闘してきた後に撮影したものです。

城 
国土地理院航空写真より −画像B−
( 2017年12月10日 撮影 )
 国土地理院の電子国土サイトからダウンロードし手を加えたもので、従来の殿山、南の公方屋敷、西の公方屋敷支城との位置関係などについて簡単に纏めてみました。中井均氏によれば、南に散開する和田集落の入口に当たることから和田城館群の監視所的な城郭であろうとされています。(※「甲賀市史第7巻」)

訪城アルバム
凸1 殿山城への案内標識
 この時点(2017年12月)では殿山城に関する唯一の目印なのでありました。どちらかといえば道というよりも単なる踏み跡なので無論夏場の見学についてはお勧めできません。

堀切
凸2 堀切
 踏み跡に従っておよそ50mほどすすんでゆくと目の前に明確な堀切地形が現れます。麓に民家が所在していることから後世には山仕事用の道として利用されていたという可能性も想定されます。しかしその両岸の切岸地形を目にしますと単なる里道の切通し地形ではないことが認識できます。

切岸上から
凸3 切岸上から
 東側の切岸上から堀切部分を見下ろした画像です。堀切の堀底部分と麓の集落との比高差は10m前後くらいしか無さそうでした。堀切の両端部については竪堀状にも見えなくもないのですが、後世の山仕事などの通路として利用されていた可能性も考えられます。

凸4 堀切
 「画像B」の個所について、反対側の南方向から撮影したものです。画像左側が郭方面で右側が従来の殿山方面です。

郭
凸5 郭
 堀切に面した平面上は少し膨らみのある東土塁付近から郭部分を撮影しています。郭の部分については基本的に単郭で概ね不整形な5角形に近いような形状をしていたのですが、この画像ではほとんど分かりません (^^ゞ

凸6 南東の土塁
 南東部の土塁上を南西方向に移動し、画像右側の郭部分とあわせて撮影してみたものですが、このデジカメ画像からはどうみてもただの藪にしか見えません。なお、この土塁上から直接郭部分に降りようと試みましたが、藪で足元が見えず意外に急傾斜で比高差もあり、結局は土塁の先端付近まで進み郭部分へと移動することになりました。

郭と土塁
凸7 郭と土塁
 北東部分の土塁は低くどちらかといえば土塁跡(形跡)と表現した方が良さそうな印象でした。余り比高差はありませんが急傾斜であることから元々低めの土塁であったのか、あるいは後世の耕作や植林などによりその高さを減じられたものなのでしょうか。当該郭の比高差は僅かに十数メートルですが、たしかに北方の方角の眺望は優れておりました。

凸8 同上
 ほぼ同じ個所ですが、北東辺縁部に移動して郭北東部分を北西方向から撮影しています。画像右上辺りには厚みのある東側土塁の一部が写りこんでいるように従来の殿山方面の尾根筋を意識した防御構造であることが伝わってきます。虎口の存在については余り明確ではなく、郭の南西方向には北西側へと下りる道がありますが、後世の耕作などの道である可能性も想定されます。東側の丘陵続きを除いた三方が急斜面に囲まれているという地形と和田集落を防御するという視点に立てば、東側堀切を南側から登ってくるというルートも考えられるような感じもします。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)従来の「殿山」に関する記述はある
「図解近畿の城郭第4巻」(2017/戎光祥出版)※和田城館群のひとつとして掲載
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)掲載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)掲載なし
「近江の城」(1997/サンライズ出版)掲載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版)従来の「殿山」に関する記述はある

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻、第7巻、第8巻」(甲賀市)※殿山城として掲載
「和田惟政と甲賀武士」(2008/和田晋次著)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
国土地理院地図および航空写真
「和田城館群−甲賀の城郭1」(2011/甲賀市)※現地配布パンフレット(和田公民館下の東側県道沿いに常備)


更新記録
・2018年2月 日 HPアップ
トップ頁へ 滋賀県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動