滋賀県内の城館跡目次
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月11日のブログ 多喜南城 毛枚北城 山岡城 獅子ヶ谷城
所在地
 滋賀県甲賀市滝小字南平、滝迫
歴史、人物、伝承

多喜氏の本城?
 「日本城郭大系11」によれば滝(多喜)には梅垣城(めいがきじょう)、多喜南城、多喜北城、青木城の4城が所在し、そのうち多喜北城が本城とみられるとの記述がある。この点については、従来は長らく「多喜北城」として呼称されていたが、現在は「多喜城遺跡」として呼ばれているという。(※「図解近畿の城郭第1巻」「甲賀市史第7巻」より)従って刊行年次の古い「日本城郭大系11」「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」などの解説書では、従来の「多喜北城」と表記されていることに注意が必要である。なお、「日本城郭大系11」に記載されている多喜北城(※現在の多喜城を指す)の遺構に関する表記はその方位、遺構の配置などに疑問があるので合わせて注意を要する。また、当多喜城を多喜氏の本城であるとする説については、その根拠が明示されてはおらず、滝地区に所在しているそれらの城跡のなかでも特に規模が大きいという事実もないことからいささかの疑問を感じる。
 多喜氏は伴四党(大原、上野、伴、多喜)などの一族があり、鎌倉から室町期に甲賀東部に勢力を有した大伴姓富永一族であり、伴家継(多喜彦太郎)を祖とし、多喜勘八俊兼は長享の乱(1487)において武功を挙げたなどとされており、多喜一族からは山岡道阿弥中村一氏などの大名となった人物のいることを記している。(※「日本城郭大系11」より)しかし、中村一氏(滝孫平次)の出自に関しては尾張国中村の出身とするなどの異説も多いことに留意する必要があろう。
 「日本城郭大系11」の記述によれば、多喜地区の多喜南城、多喜北城、青木城の4城が甲賀町当時の史跡指定を受けているかのような記述となっている。しかし現在甲賀市指定文化財一覧では、滝地区の梅垣城のみが史跡指定されていることになっている。この点について指定年月日と当時における多喜城郭群等としての指定からの変更であるか否かについては未確認。南東約150mには多喜南城が所在している。

確認可能な遺構
比高差約20m、郭、土塁、櫓台、堀切ほか 
文化財指定
市指定史跡?(※あくまでも「日本城郭大系11」による漠然とした記述による)
訪城年月日
 2017年12月11日 13時20分から14時00分
訪城の記録 記念撮影

 前転
 かつては「多喜北城」とも呼ばれていたとのことで、多喜南城、多喜北城などの城館と紛らわしいものがあります。
多喜南城へと向かう林道の途中、今のところでは「画像2」のヘアピンカーブの手前を右手(北側)へと戻ると少し藪があるもののかなりの近道になります。なお分岐した林道はそのまま北側の集落に降りてしまうので、進行方向左側に見える踏み跡を無理やり這い上がると「画像3」の主郭部の虎口状の地形へと辿り着くことになりました。その縄張りは墓地部分などを含めると往時は複郭構造であった可能性があり、かつ主郭土塁に2か所ほどの膨らみがあり櫓台などが存在していた可能性も想定されます。こうしたことから多喜氏の本城という説が生じたのかも知れませんが、城域そのものは他の城跡とそれほどの違いは見られず、比高差自体もあまり高くは無いこともあり本城という印象はあまり感じられませんでした。
 むろん「画像6」のように、北側の尾根筋からイノシシ除けのフェンスを開閉して共同墓地経由で堀切脇へと向かうこともでき、たぶんこちらのルートの方が足元は良好です。なお、一般に公開されている「縄張図」はいくつか存在していますが、高田氏の作成された「甲賀市史7巻」に掲載されているものが比較的現状の特徴をよく捉えているという印象がありました。なお探訪した2017年12月11日現在においては、主郭土塁部分は比較的藪が少ないですが、竹林も多いことから数年を経過しますとかなりの藪となる可能性も考えられます。
 比高差は殆ど無いもののこの日も早朝から4か所連続の藪城に続く5か所目の藪城で、そろそろ足元が危うくなりかけておりました。そうしたところ竹木が伐採された虎口から20mほどすすんだ辺りで枯れ枝に躓き、手を付くという暇もなくものの見事に前方へと転倒。大事なデジイチだけは防御に成功したものの転倒の衝撃でレンズフードが吹き飛びました。10年前には考えも及ばぬ体幹の衰えを思い知りました (^^ゞ
( 2018/1/24 )記述
多喜城の遠景 
多喜城の遠景 −画像A−
( 2017年12月11日 撮影 )
 南東に所在する多喜南城の主郭北部の腰郭状地形(耕作地)から撮影した画像です。主郭部は画像中央のやや左上の竹木が伐採されている丘陵です。

多喜城北西の堀切
多喜城北西の堀切 −画像B−
( 2017年12月11日 撮影 )
 「近畿の城郭1」では堀切としては記載されていませんが、「甲賀市史第7巻」で堀切地形が描かれているとおり、かなり明確な堀切地形でした。この堀切の向こう側には削平地や腰郭地形が所在しているらしいのですが、この時点で探訪するエネルギーが枯渇し始めたために未確認のままです (^^ゞ

訪城アルバム
林道からの近道
凸1 林道からの近道
 城跡へは林道のヘアピンカーブの個所を北側(画像中心部から上方)へとすすみ画像2の部分を目指します。このヘアピンカーブを下れば元龍寺へ、反対に画像左手前に登ってゆけば多喜南城へと向かうことができます。

虎口か
凸2 虎口か
 近年に行われたと思われる竹木の伐採や雑草の繁殖により、分かりにくくはなっていますが虎口のような印象がありました。しかし、その道筋はあまり明瞭ではなくなっているように感じられました。この辺りの標高は約220mほどです。

凸3 
 「画像2」とほぼ同じ地点から撮影した主郭土塁の東辺で、少し無理すればこの辺りからも行けそうか、どの辺りから土塁に這い上がろうかと物色中に、ついつい足元の注意が疎かとなりこの辺りで転倒 (^^ゞ 足場も尖った竹林の切株が目立ち、肝心のストックも20cmほど地面に潜るのでこの地点からの登攀は断念しました。

主郭土塁西辺の北端部
凸4 主郭土塁西辺の北端部
 結局主郭土塁を登るのはこの西辺部の土塁北端からすすむのが比高差も少なく、しかも一番安全で楽であることに気が付きました。もっとも足元の土は柔らかめで頼りのストックが地面に埋没しましたので木の枝などに掴まりつつストックを逐一引き抜きながらの登攀です。むろん登攀といってもたかだか数m程度の比高差なので思いのほか楽に登れました。これだけ登りやすいということは、おそらく往時においても土塁上への移動ルートを想定したものあったのかも知れません。

主郭土塁南西隅
凸5 主郭土塁南西隅
 櫓台を設置するのにふさわしい面積の広い土塁で、ここから東へと土塁が90度向きを変えています。この隅からは灌木が茂り下部に2段ほどの腰郭地形が付けられています。

主郭土塁南東隅
凸6 主郭土塁南東隅
 この部分も土塁幅が広がり「画像5」の部分と同じように櫓台に相応しい削平地となっていました。また西辺は北へと土塁が伸びるのに対してこちらでは2段ほどの腰郭地形(「画像3」の個所を指す)が北側にのびて東辺土塁の代わりのような役割を果たしているように思われました。

主郭土塁南東隅端
凸7 主郭土塁南東隅端
 この地点からは滝南城方面が一望できます。仮に樹木が無ければ、大声を上げれば肉声が届くくらいの距離です。

主郭南東部堀切
凸8 主郭南東部堀切
 画像奥の丘陵は標高が237mを有しています。甲賀市内の尾根筋先端部に築かれた城館跡には、一般に尾根の付け根側に高い土塁を配される事例が多く見受けられます。そうした典型事例とは別に手前の主郭土塁(推定櫓台部分)との比高差は10m以上もあり城内を俯瞰されてしまう恐れが生じることから、南側に地山を生かした高い土塁が築かれたようにも思えました。この堀切部分もかなり急峻な地形でしたが、主郭土塁への最短ルートと考えて2、3歩登ってみたところで滑り落ちそうになり断念しました。堀切はその機能も含めて現存しておりました (^^ゞ

北端部の地形
凸9 北端部の地形
 主郭の北西部には2段ほど下がりこの共同墓地(旧金乗院跡)が所在しています。その北端部に櫓台状の独立地形が残存しているのが目につきます。古墳のような印象もありますが墓地などの整備に伴い周囲の地形が大きく改変されている可能性が想定され南の主郭部分との繋がりが気にかかりました。

北側からのルート
凸10 北側からのルート
 自分はこの場所に下りてきましたが、むしろこちら側から登るとそのまま主郭土塁にも通じていることもあり、万遍なく遺構を見学するのでなければ手っ取り早い方法なのかも知れません。コンクリート構造物は文化財保護を呼びかける標柱です。

北西から
凸11 北西から
 城跡の北西部からの遠景です。画像中央部の墳丘地形は「画像9」の地形です。

神社祠
凸12 神社祠
 主郭部から西北西方向にのびた尾根筋先端部(「画像B」の堀切付近から続く尾根筋と同一)に所在する小祠です。この神社の境内地自体もなかば独立した要害地形のように感じられたことから立ち寄ってみました。ただし「画像B」からの尾根筋と一応地形上は繋がってはいたのですが、等高線には表れにくい地形的な隔絶を感じました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)⇒ 解説あり
「図解近畿の城郭第1巻」(戎光祥出版) ⇒ 縄張り図付の詳細解説あり
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)記載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)記載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版) ⇒ コースガイド記載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
甲賀市史第2巻、第7巻」(/甲賀市) ⇒ 縄張り図付の詳細解説あり
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
甲賀市HPの指定文化財一覧


更新記録
・2018年1月24日 HPアップ
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