滋賀県内の城館跡目次
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滋賀県の城館索引へ戻る 毛枚北城 毛枚北城のロゴ 毛枚北城
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月11日のブログ 
所在地
 滋賀県甲賀市甲賀町毛枚小字深谷、下出
歴史、人物、伝承

経緯不詳
 西麓を毛枚川が北流し、東方には青野川が大きく蛇行する南から続く丘陵の先端部に所在しており、主郭中心部の標高は213mを測るという。経緯、城主については不明とされている。(※「甲賀市史第7巻」より)
この点については「甲賀郡志」(1926年刊行)によれば、「毛枚太郎」なる人物の名を挙げて城主としているが、この毛枚北城を指すのか南方約200m地点に所在する「獅子ヶ谷城」(ししがたにじょう)を指すのかは判然としない。まだ同人を含め毛枚氏は「甲賀士由緒書」などでは、その名を直接確認できないが、「甲賀郡志」では山岡氏の祖である伴太郎景広毛枚太郎と呼ばれていたとしているものの、その詳細は不明な部分も多いように思われる。(※「甲賀市史第8巻」より)
南西約150mには山岡城が所在しており、地理的には同氏に関連する可能性も想定されるが、縄張りの特徴が異なることもあり無論推測の域を出るものではない。また谷津田を挟み北方多喜氏の領域にも近接している点も留意する必要があるのかも知れない。

確認可能な遺構
 比高差約10mから15m、土塁、櫓台、堀切、郭ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月12日 11時00分から11時45分
訪城の記録 記念撮影

 印象深い堀切
 他の甲賀の城館と同様に規模も小さく比高差も少ないのですが登り口は至って明確でした。思わず笑みが零れそうになるほどの良好な遺構群(土塁、櫓台、堀切、井戸跡、切岸など)を目にすることができることから見学に際してはほどよい整備が為されているように感じました。もしも甲賀市内の城館跡がこのような城館跡ばかりであれば、体力の方は別にして少なくとも気力だけは堅持できるのでありますが、それぞれの地域事情などにより違いが発生してくるのでありましょうか。
 比高差の少ないこのくらいの城館跡では複数の登り口(後の破壊道を含む)がありそうなものなのですが、現在実際に登ることのできる個所は「画像2」の大福寺北側の個所だけであるように思えます。それ以外の方角からは自然地形も活用した10メートルはある深い堀切と切り立った切岸に囲繞されており、ほぼ現在の登り口以外からはアプローチすることが困難でした。
( 2018/1/20 )記述
毛枚北城
毛枚北城 −画像A−
( 2017年12月11日 撮影 )
 北麓から見上げたかぎりでは容易に這い上がれそうにも見えるのですが、ストックを使用し傾斜面を斜めに登るなどの工夫をしてもかなり難しそうに思えました。

毛枚北城の堀切
毛枚北城の堀切 −画像B−
( 2017年12月11日 撮影 )
 城跡の規模に比べるとかなり深い堀切でした。左(郭外)10m、右(郭内)10mの深さがありこの部分での堀幅も20m前後はありそうな大規模なものでした。この堀切地形での移動は斜面の傾斜もあり、孟宗竹に掴まり上り下りしたりしますので手袋とストック(埋没防止ガード付きのもの)が役立ちます。

訪城アルバム
大福寺
凸1 大福寺
 城跡は大福寺が所在する丘陵の先端部に所在しています。近くの山岡城方面から市道を歩いていきますとこの風景に出合いますが、この地形は城跡とは直接の関係はありません。あくまでも毛枚北城はこの画像左手の大屋根の見える大福寺のさらに左手の丘陵北端部に所在しています。

大福寺と山岡氏
凸2 大福寺と山岡氏
 山岡景隆を開基とすると伝わり同人の追善供養位牌も祀られていることから山岡氏との関係が深いことは確かなようですが、この毛枚北城との関連は不明なようです。

虎口かどうか?
凸3 虎口かどうか?
 右側の主郭と思われる削平地と土塁の延長線上に所在している櫓台と思われる地形に挟まれた入口ですが、虎口にしては堀切や櫓台などの存在に比してやや簡素であるように感じました。

井戸跡
凸4 井戸跡
 現在でも深さ1.5m以上の水を湛えておりましたが、以前住宅が存在していた時の生活用水として利用されていたものなのでしょうか。この場所以外にも水はありませんでしたが他に2か所ばかり井戸跡のような窪地が散見されました。

腰郭と土塁
凸5 腰郭と土塁
 「甲賀市史第7巻」によりますと、本来の虎口はこの土塁方の腰郭地形を経由して北側方面に下るというルートが存在した可能性を示唆しています。なお北東側の谷沿いにも同様の腰郭地形が存在しており、実際に谷へと降りる道筋そのものは消失していましたが、当該谷筋からのルートも候補のひとつではないかとも思いました。

櫓台状の地形
凸6 櫓台状の地形
 幾分手前部分が崩れてはいますが往時は櫓台として機能していた可能性が想定されます。なお画像手前の部分も削平された小郭であるようにも見えます。なおこの地点に向うルートは「画像7」の土塁に取りついて、さらにその上を50mばかり移動する必要があります。

唯一の登り口
凸7 唯一の登り口
 このルートは「画像3」の部分につながるもので現状では城跡へと至る唯一の登り口ではあるのですが、30年以上前には郭内に住宅が存在していたとのことですので、あくまでもその時の通用口の名残ではないかと思います。 (※「甲賀市史第7巻」より)

北側からの遠景
凸8 北側からの遠景
 北方の多喜城方面へと移動する際に撮影した画像で、多喜氏の多喜南城との距離は画像手前の谷津田地形を挟んで直線で約200mの至近距離です。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)


城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
 ただし毛枚太郎を城主とする「毛枚城」に関する記述があるが、この毛枚北城との関わりは委細不明のように思われる。
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社) ⇒ 末尾一覧表掲載あり
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)掲載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)掲載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)掲載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版) ⇒ 掲載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(/角川書店) ※「日本城郭全集」と同様に「毛枚城」等についての記述があるが委細不明。
甲賀市史第2巻、第7巻、第8巻」(/甲賀市) ⇒ 第7巻に掲載あり

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本

その他
なし


更新記録
・2018年1月20日 HPアップ
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