滋賀県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月11日のブログ 毛枚北城 獅子ヶ谷城 
所在地
 滋賀県甲賀市毛枚小字谷出
歴史、人物、伝承

山岡氏の城と伝わる
 甲賀武士のなかでも名の知れた山岡氏の城館のひとつでもあり、毛枚地区の谷沿いの集落を俯瞰することのできる比高差約20mほどのほぼ独立した丘陵上に位置している。東麓を毛枚川が北流し北方約200m地点には毛枚北城が、また南東約150m地点には「獅子ヶ谷城」(ししがたにじょう)が所在し何れも山岡氏に関連する城館跡であると考えられる。なお当城主は山岡景隆、景友とも伝わるというが、その当時における山岡氏の本拠地であった瀬田からは些か離れている。
「新訂寛政重修諸家譜」によると、鎌倉期の貞景の代に三河国から甲賀郡大原村に移住し大原氏を称し、その子孫である景廣は甲賀郡毛枚に移り毛枚氏と名乗った。その後景道の代に大鳥居氏、資広の代に栗太郡瀬田城を本拠として山岡氏を称したという。当城主とも伝わる景隆(1525-1585)、景友(1542-1603)兄弟は織田信長に仕え、弟である景友は山岡道阿弥(※母は和田惟政の娘とされている)の名でも知られ、後に徳川家に仕えて近世には常陸古渡藩1万石(※現稲敷市、無嗣廃藩ののち丹羽長重が封じられた)の大名となったともいう。(※「甲賀市史第7巻」「甲賀市史第8巻」などより)

確認可能な遺構
比高差約20m、郭、腰郭、土塁ほか 
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月11日 10時20分から10時50分
訪城の記録 記念撮影

 気配りの探訪
 下記の画像からも分かるように城域の半分以上は宅地もしくはその隣接地であることから、果たしてどの辺りまで拝見しても構わないのかについてかなり悩みました。もちろん各所に設置されている「注意書き」などに気を配りつつ、常に節度をもって見学する必要があることはいうまでもありません。その一方で毛枚地区にはこの山岡城以外にも毛枚北城、獅子ヶ谷城なども所在することから、うまく時間を配分すれば約2時間ほどで合わせて3か所も探訪できるというl利点もあります ^^
 滋賀県は年に一度ほどの関東圏からの遠征という事情のため、往復には新幹線利用となり無論車は利用しません。このため移動は全て公共交通機関と徒歩となりますので、現地での駐車場所確保などに煩わされるようなこともなく、その時々の自分の足の塩梅に合わせた探訪ができるというメリットもあることに気づかされました。特に甲賀市内は中世城館の密度が高い地域が多く、プランニング次第では徒歩のみであっても10か所前後の中世城館を探訪することが可能になります。もっともその一方でスーツケースを所持しての移動は極力避けたいので、当日の宿泊先に手荷物を預託するという手間暇(※最低でも30分前後のロスタイムが発生)が必要になりますが。
( 2018/1/22 )記述
山岡城
山岡城 −画像A−
( 2017年12月11日 撮影 )
丘陵東麓を北流する毛枚川(もびらがわ)沿いの市道から撮影した山岡城の遠景画像です。ただし崖線部に見えているのは城跡の南東部付近であり、城跡の中心部は樹木の見える辺りになります。

山岡城北東の郭
山岡城北東の郭 −画像B−
( 2017年12月11日 撮影 )
 画像手前部分は城跡の最も標高の高い郭(削平地、主郭か物見かは不明)の北東部で、約4mほど低い郭が北東部に続いています。しかし、その先には柵が設置されており部外者の人間の立入が可能なのはこの手前の辺りまでのように思われました。

訪城アルバム
城跡への入口
凸1 城跡への入口
 毛枚地区の市道を南西に進んだ辺りに見える入口ですが、ほんの数軒ほどの民家へと続いている半ば私道のような細道ですので、見学者としては徒歩以外にアプローチの方法はありませんでした。

ゲート
凸2 ゲート
 城跡の中心部と推定されるルートには比較的新しいゲートが設置されておりました。「開けたら閉めてください」という旨の注意書きでしたので、失礼いたしますと独り言を呟きつつ入れさせていただきました。右側の民家のブロック塀が途切れた辺りの右手に切岸状地形を伴う「画像3」が続きます。

切岸状地形
凸3 切岸状地形
 城跡一帯は宅地の拡充や耕作などにより相当程度の地形の改変が行われているように見受けられます。このためこの細い道から左側を城域と見るか、この右側部分の切岸地形を伴う削平地(畑と山林)を含めるのか迷います。城跡を通り抜けるにはこの画像左下の道を利用させていただきました。

最高地点付近
凸4 最高地点付近
 「画像3」の個所から道を下らずにそのまま道を登ってゆくと、この主郭のようにも見えなくもない、また当該削平地の虎口のようにも見えなくもない地点へと到達します。

削平地
凸5 削平地
 「画像4」の地点から続く平坦な郭状の地形で、かつては耕作地として利用されていたような印象もある三角形に近い形状の削平地です。後世の地形改変によりいくぶんその面積を減じている可能性もありますが城域のなかの最高地点でもあります。目測による推定面積約600平方メートル。

北東尾根続き
凸6 北東尾根続き
 画像右側の民家部分を主郭と見なしてこの手前の削平地を土塁の一部として捉える考え方もあるようですが、面積は狭くとも画像手前の削平地の方がより防御性も高く眺望にも優れているように感じました。いずれにしても後世の宅地化や開墾などがすすんでいるため、元々の縄張りを想定しづらい現状でした。

同上
凸7 同上
 最高地点の北東部からの眺望は仮に北西側の山林が無ければ、南西部の丘陵続きの部分を除ききわめて眺望のひらけた地形であることが分かりました。なおこの部分は画像右側のお宅の庭先でもあることから、あくまでも上からの俯瞰のみで立入はできません。

凸8 腰郭状地形も
 最高地点の郭(削平地)から西へとのびる尾根筋に2段ほどの腰郭状の地形も確認できましたが、この下方にも幾つかの削平地が存在しており、果たしてどこまで城跡に関連するものなのかその判断に苦慮します。

民家裏の崖線地形
凸9 民家裏の崖線地形
 ほぼ画像右側のお宅の庭先に近いような通路を足早に通り抜ける際に撮影させていただいたものです。往時からのものと宅地部分の拡張などに伴い削りだされたものが混じりあっているようにも見えました。

下り口
凸10 下り口
 そのまま下り坂の通路に沿って手前の市道の先の方に下りてくることも可能ですが、こちらの階段を利用させていただきました。この場所から登っていくことも可能だと思いますが、途中で私道のようなところや庭先を失礼するような個所もありますので余りのんびりと見学するのには躊躇いがありました (^^ゞ
交通案内

※城跡近くには駐車できるようなスペースはありませんので、なるべく徒歩での見学をおすすめします。

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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社) ⇒ 解説あり
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)掲載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)掲載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)掲載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版) ⇒ 掲載あり
「甲賀市史第2巻、第7巻第8巻」(/甲賀市) ⇒ 掲載あり


歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館) ⇒ 山岡景隆、景友に関する項目が収録されている

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
なし


更新記録
・2018年1月22日 HPアップ
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