滋賀県内の城館跡目次
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月12日のブログ 竹中城 服部城 倉治城 カリヤ城
所在地
 滋賀県甲賀市甲南町新治小字大門
歴史、人物、伝承

服部氏か望月氏か
 当城館跡は2008年7月28日「甲賀郡中惣遺跡群」(寺前城、村雨城、新宮城、新宮支城、竹中城)のひとつとして史跡名勝天然記念物としての指定を受けている。単郭方形の形式が目立つ甲賀の城館跡としては珍しく、主郭以外に5か所ほどの削平地を伴う城館であり、城郭形式の変化と拡張の背景については永禄年間〜天正年間にかけての尾張織田氏の近江侵攻などいろいろと想像をはたらかせることのできる城跡でもある。
 甲賀服部氏は後世の寛文7年(1667)に記されたとされる「甲賀士由緒書」(甲賀市蔵)に甲賀53家として服部藤太夫(はっとりとうだゆう)の名が見え、そのうちの「甲賀21家由来」にも同人の名が記されているように、戦国時代には佐々木六角氏に従い鈎の陣において軍功を挙げていた旨が伝わっている。またその後には岩室、多喜、佐治、大原、鵜飼、望月らの甲賀の諸氏とともに「甲賀奉公衆」として組織的に将軍家に仕え、将軍の直属部隊として活動していた時期もあるらしい。(※甲賀市史第2巻より)
 なお本城についてはかつて甲南町当時に設置された案内板(画像1参照)では望月氏の関与を示唆しているようにも思える。望月氏も服部氏と同様に「甲賀士由緒書」「甲賀21家由来」に登場する一族であり、むしろ服部氏よりもその支配領域はより広域であった可能性も考えられる。

確認可能な遺構
 土塁、堀切、郭、虎口ほか
文化財指定
 国指定史跡(「甲賀郡中惣遺跡群」) 2008年7月28日指定
訪城年月日
 2017年12月12日 14時05分から14時30分
訪城の記録 記念撮影

 国指定史跡と藪
 冒頭などに記したとおり以前に国の史跡指定を受けてはいるのですが、訪れた時点での城跡の整備状況は12月中旬という時期であるにもかかわらず、画像の通りであったことから決して見学しやすいとはいえず大変残念に思われました。たぶん基本は私有地内であろうことから、余りありあちこちに踏み跡を残すことも躊躇われ、また草むらに覆われた郭跡も足元がよく見えず、運悪く井戸跡などに嵌っても笑い話にはならないと踏み跡の確かな部分のみを往復して早々に撤退することとなりました。
 この日は肌を刺すような寒さを除けば雲の少ない城館跡の探訪には絶好な日和で、このあと寺前城、村雨城へも足を延ばすことも視野に入れておりましたが、気力と体力の限界を感じまともな画像を得られるのは午後3時頃までであるとの理屈をつけて次の機会に譲ることとしました。もっとも仮に幸いにして次の機会が訪れたとしても、確実に気力と体力は減衰の一途を辿っていることだけは確実に予想できます (^^ゞ
( 2018/2/6 )記述
新宮城南西部分
新宮城南西部分 −画像A−
( 2017年12月12日 撮影 )
 下記の「画像6」の個所を過ぎて、そのまま里道を進むとこの標柱が目に入る城跡の南西部に到達します。Y字路の分岐の様子からは到底国史跡指定の城跡がありそうには思えないのですが、この日は漸く7城目にしてこういった明確な文化財標柱の存在を目にしますとやはり嬉しくなります。

新宮城南西部堀切
新宮城南西部堀切 −画像B−
( 2017年12月12日 撮影 )
  肉眼ではもう少し明確な堀跡なのです。画像右手が主郭側で現状でも堀底から土塁までの高さは高いところでは4m以上を有していました。

新宮城南東虎口付近
新宮城南東虎口付近 −画像C−
( 2017年12月12日 撮影 )
 主郭南東の虎口付近です。この辺りでは画像左手の土塁もその高さを増して虎口に対する防御意思を感じさせてくれます。

桝形虎口付近
桝形虎口付近 −画像D−
( 2017年12月12日 撮影 )
 肉眼ではもう少し明確に塁線部分を捉えることができるのですが、12月中旬でもこのような按配でありました。虎口としての通路部分は画像左側の窪地部分に相当する模様です。

新宮城現地解説板
新宮城現地解説板 −画像E−
( 2017年12月12日 撮影 )
 枝を折るわけにもいかず足と手を動員して笹の枝を押さえておりますが、手を放したりいたしますと笹薮に埋もれた感じになり車移動の場合には見損なうかも知れません。

国土地理院航空写真画像
国土地理院航空写真画像 −画像F−
( 2018年2月6日 編集加工 )
 国土地理院の電子国土サイトからダウンロードし手を加えたもので、北西約200mには服部城、南約50mには新宮支城ともいわれる城館跡も所在しています。なお南側の方形の道路はこの当時に開始された住宅地の造成工事に伴うものです。

訪城アルバム
画像クリックで拡大します
凸1 新治の七城
 竹永城(竹中城)、倉治城、服部城、新宮城、新宮支城、寺前城、村雨城の7城の位置と縄張り、その歴史的背景などを簡略に記した解説板が、浄土宗善願寺山門前に設置されていました。30年以上前の甲南町当時のものです。画像のように経年劣化が進んでおり、いくぶん読みにくくはなっていましたが、この地域全体の理解を進める上でたいへん有用な存在ではないかと感じました。 なお、この解説板の記述によりますと、この新宮城については望月氏の関与を示唆しているようにも感じます。

西側住宅地からの入口
凸2 西側住宅地からの入口
 服部城から元の道へと戻り、新興住宅地内の道路を南下して服部城へと向かう丁字路から数えて5番目の丁字路の個所で、その反対の南東方向に向かうこの古い里道に入ります。

丁字路
凸3 丁字路
 「画像2」の個所から50mほど進みますとこの丁字路に突き当たりますのでこれを右折します。なおこの個所を左折すると里道は下り坂となり、おそらく城跡北麓に所在している用水池の辺りに出るはずです。

凸4 Y字路
 「画像3」の個所からそのまま道なりにさらに50mばかりすすんでゆくと、道路上に赤色の杭が打たれたY字路の分岐がありますので、些かも躊躇うことなくこの藪をすすみます ^^
※2017年12月12日現在において、住宅地側からのアプローチに際しては、特に案内標識に類するようなものは見かけませんでした。

土塁?
凸5 土塁?
 林の中の道をやや下り坂気味にすすんでゆくと、次第に藪は多少影を潜めて幅の広い丘陵の尾根筋に沿って歩いていることが分かります。また道の左側(北西側)には一見すると土塁のようにも見える細長い高さ1m、長さ40mほどの盛土地形が現れます。しかし防御施設としては里道と平行しており、直接城館遺構に関連するものであるかどうかは判然としません。若しかすると古い猪垣のようなものなのかも知れませんが詳しいことは分かりません。

凸6 城跡南西隅付近
 主郭の南西隅でもある個所で、「甲賀市史第7巻」では虎口ではなく、後世の破壊跡として捉えています。山仕事などの里道が土橋状に堀切を越えてそのまま一直線に主郭南西角付近に繋がっていることを考えますと、やはり虎口である可能性は少なそうです。なお画像中央部のやや右に存在する土塁は画像左側のものと比較すると規模の違いが明瞭ですが、谷筋と平行に所在しているという地形効果の加味を期待しての普請結果なのでしょうか。

主郭南西角
凸7 主郭南西角
 主郭の土塁を直線的に越えるルートで、前項「画像6」の反対側である主郭内部から撮影したものです。

凸8 桝形虎口下部
 本来のルートはこの画像の個所から画像右手に移動してこの画像正面の土塁の裏側を通り主郭東側の郭へと続くというものであったと推定されているようです。この時には桝形虎口と推定されている個所は笹薮が元気に生育していたことから、塹壕を伴う保塁のようなものかも知れないなどと思ってしまいました。事実画像手前から見上げると実に威圧感の伝わる土塁壁なのでありました ^^

東麓郭群
凸9 東麓郭群
 城跡東麓に所在している5か所ほどの郭状の削平地については、後世の屋敷跡などの可能性も想定されていらしく、果たしてどの辺りまでが本来の城館跡に伴うものであるのかは判然とはしていないようです。

東麓の標柱
凸10 東麓の標柱
 県道49号線沿いに設置されている文化財標柱ですが、やや笹薮の陰になっているためあまり目立ちません。笹を片足で押さえて、それでもはみ出してくる笹を左手で除けて背中をそっくりかえり撮影しております (^^ゞ

城跡東麓から
凸11 城跡東麓から
 日没時刻なども迫っていたために、県道の反対側に所在する建設資材置場付近から撮影しています。なお県道49号線とはいうものの、その幅員は6mに満たないセンターラインも敷設されていない極めて細い県道でありました。

寂しげな登城口
凸12 やや寂しげな登城口
 画像奥が城跡で、手前が県道49号線です。城跡の主郭方面から東麓へと降りてくるとこの辺りの笹薮に出るのですが、なんとも寂しげな風情を感じてしまいました。解説板の設置状況などを考慮いたしますと、こちらの方がメインの登城ルートとして整備されたのかも知れません。すぐ脇を通過する県道49号線もそれほどには通行量も多くは無さそうなこともあり、幅員の狭さとは関係なくスピードを上げて車が通過します。このためのんびりと路傍の解説板を眺めていたりいたしますと、思わぬ事故に遭遇するかも知れませんのでくれぐれも注意が必要です。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社) ⇒ 服部氏を城主とする記述あり
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)記載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)記載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)記載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版)
 ⇒ 城主に関しては服部氏一族の可能性を示唆している。

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻第7巻、第8巻」(/甲賀市)
「和田惟政と甲賀武士」(2008/和田晋次著)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
文化財オンライン(文化庁)※国史跡指定に関する情報
国土地理院地図および航空写真


更新記録
・2018年2月6日 HPアップ
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