滋賀県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 滋賀県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
滋賀県の城館索引へ戻る カリヤ城 カリヤ城のロゴ カリヤ城
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年12月12日のブログ 竹中城 杣中城 古屋敷館
所在地
 滋賀県甲賀市甲南町新治小字カリヤ
歴史、人物、伝承

経緯不詳、遺構消滅
 築城の経緯、城主などの歴史的背景は不明であるが、「甲賀市史第7巻」においてかつては堀跡と土塁に囲まれた方形館の形跡が確認されていたという。同書によれば明治初期の地籍図からは堀跡の規模は方約60m四方で南に向けて虎口を開いた形式を有していたことが確認され、圃場整備以前の地形図からも同様の地形が見られたとしている。なお城館の名称については小字名に由来するものと思われる。
 「甲賀郡志」の記述によれば、当地は近隣の竹中城、倉治城などと同様に戦国時代の頃には甲賀53家に数えられる倉治氏が支配していたともいわれているが、この城館跡との関わりについては全く不明らしい。また同書によれば倉治氏に関しては倉治右近(介)の名が伝わり、佐々木六角に属して氏長享の乱(「鈎の陣」)に武功を挙げたとされるだけであり、それ以外の詳しい事跡は伝わってはいない模様である。
 なお新治の地名は明治12年における新宮と倉治の合併によるものであり、それ以前には倉治が村名であり、その漢字表記には倉治のほかに倉地、倉智などが見られるが、最も古いとされている寛文7年(1667)の「甲賀士由緒書(写)」によると「倉治」の文字が宛てられていることが確認できる。(※「甲賀市史第2巻」より)

確認可能な遺構
なし(圃場整備などにより地表上の形跡は消滅) 
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年12月12日 12時05分から12時10分
訪城の記録 記念撮影

 航空写真画像にも痕跡を残す
 段丘の北辺部に所在し、圃場整備事業により事実上消失した城館跡とされていて、土塁部分ではおよそ50m四方の方形館が所在していたことが、明治期の地籍図から読み取れるとされています。画像中央部からやや右上に所在している旧家宅をほぼ南限とする形で、画像の左側付近に存在していたものと推定されます。
( 2018/2/3 )記述
カリヤ城
カリヤ城 −画像A−
( 2017年12月12日 撮影 )
 当地付近は圃場整備と市道などの付け替え事業も含まれているようで、その景観は圃場整備以前とは大きく異なってはいるために暫時位置情報が混乱してしまいました (^^ゞ

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像B−
( 2018年2月2日 編集加工 )
 電子国土のサイトから国土地理院航空写真をダウンロードして少し手を加えたものです。撮影された時期などは昭和50年3月撮影のカラー画像で、宅地部分の南西部を除いて圃場整備以前の方形の堀跡ないし土塁跡の形跡が確認できます。竹中城の遺構は屋敷林などに遮蔽されていますが、このように整備以前の耕作地では城館跡の形跡を追跡できる事例も散見されます。とくにこの画像については撮影高度が比較的低いこともあり分かりやすい画像となっていました。

訪城アルバム
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「図解近畿の城郭第1巻から第4巻」(戎光祥出版)掲載なし
「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(2015/吉川弘文館)掲載なし
「近江の山城ベスト50を歩く」(2006/サンライズ出版)掲載なし
「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(2006/サンライズ出版)掲載なし

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典25滋賀県」(1979/角川書店)
「甲賀市史第2巻、第7巻、第8巻」(/甲賀市) ⇒ 縄張図付の解説あり
「和田惟政と甲賀武士」(2008/和田晋次著)

史料、地誌、軍記物
「甲賀郡志 復刻版」(1978/名著出版)

その他
国土地理院地図および航空写真

更新記録
・2018年2月3日 HPアップ
トップ頁へ 滋賀県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動