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城館跡の名称 ■■■城名
関連ページのリンク  2005/09/08の日記  飯塚氏館 用土城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合23
所在地
埼玉県大里郡寄居町用土前郷地2166付近
歴史と沿革

ほぼ不明な経緯
 古文書、伝承などの類も確認されていない模様で、「埼玉の城館跡」などによれば「用土堀ノ内」との呼び方がされているというだけでほとんど不明なようです。
 なお、「用土」の名称は「古くは淀村と称し坂上田村麻呂の蝦夷平定の折に、土偶を作るのに土質が適していることに因む」との説があります。(「用土村誌」)
 その後この地は東西に旧鎌倉街道が通り用土原と呼ばれる広野であったために、元弘・建武の頃にはしばしば合戦場となったといわれています。このほか文明9年(1477年)5月、太田道灌は長尾景春の乱により崩壊した五十子陣から上野方面に退去した山内上杉顕定・扇谷上杉定正を救援すべく、用土原において長尾景春と戦いこれを敗退させています。(「太田道灌状」)そしてその後に開墾がすすみ用土八郷と称されました。(「藤田家家譜略」)
 戦国時代には用土氏あるいは藤田氏などの支配地域であったものと思われます。また現在も小久保姓の旧家が所在することから、そうした戦国時代における土豪クラスの比較的小規模な在地領主の館であったのかもしれません。

確認できる遺構
堀跡か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■利根川の支流藤治川の上流の櫛挽台地の中央部に位置し、南西1.2キロに猪俣党の飯塚氏館、西北西1キロに用土城などが所在しています。規模は南北方向については約100mというのは間違いのないところで、東西は100m乃至200m程ではないかと思われますが現在の地形からは明確には分りかねます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)

文化財指定
訪城年月日
2005/09/08
訪城の記録

( 2005/09/08 )
かつての堀跡と思われる水路が残る
 地上の遺構は最初から何もないはずとの先入観があり、おまけに歴史的な背景もほとんど不明とくれば始めから余り期待は持てないということに。
さて、現地に赴き車を停めても支障のなさそうな集落の外れの道路の広いところを探してから、徒歩にて少し戻って集落の中を探索しました。まず、館跡と推定される場所の南側の道路が埋め戻した堀跡を利用しているように思えてなかなかの好感触が。次に宅地北側の防風林の辺りに堀跡ぐらいはありそうだとの直感も。実際にまさにその場所に幅1mほどのかつての堀跡らしき水路を目にしたときは、改めて何事も経験をつむことの大切さを実感しました。
 また、この一帯の農家は大挙して水田耕作から園芸農家に移行した模様で、写真のように水田も残されてはいますが、あちこちに大型のビニールハウスや出荷前のキクのポットが目に付きました。

記念撮影

 
 北東側からの用土堀ノ内の遠景で、現在は水路となっているかつての堀跡が北側の防風林に沿って約200mほどにわたって残されていました。
 ( 2005/09/08 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■@集落の中の館跡と推定される場所の南側の不自然に曲がりくねった道路は、かつての堀跡の存在を連想させてくれます。

■Aもしかすると、ひょっとすると、ことによると土塁跡かも...たぶん違うとは思いますが60センチ程の土の高まりが館跡の北西にポツンと遺されていましたので一応記念撮影を。

■B城館跡とは全く何の関係もない案山子の画像ですが、夜中にヘッドライドに照らされる光景はちょっとしたミステリゾーンを思わせます。髪の毛のある首だけのマネキンが宙に浮いて見えるのではないかと...

■C北側の堀跡の水路は東にすすむほど狭く浅くなり、途中からはU字溝が埋設されていることがはっきりと分かるようになり屋敷林の途中で消滅していました。
交通アクセス

・JR八高線用土駅より徒歩15分ほど MapFan Web の案内図です  

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