トップジへ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HPの日記等
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称 ■■■城名
関連ページのリンク  2005/08/20の日記  不動寺氏館  島田氏屋敷             
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
埼玉県大里郡寄居町富田
歴史と沿革

史実よりも絵巻物のフィクションで有名な存在
 「寄居町史通史編」などによれば、武蔵七党猪俣党の猪俣時範の子重任が男衾の地に居住して男衾野五郎を称したとされ、「同史によると、「旧埼玉県史」(1933年)の記述から「埼玉の館城跡」(1968年)は男衾氏の居館について、この場所を比定しているということです。また近世の枝郷の名称から「谷津の堀ノ内」とも呼ぶそうです。
 なお、男衾氏については男衾二郎という名が「源平盛衰記」に登場するものの、史実としてよりも鎌倉末期の永仁年間(1293から1298)に製作されたと考えられる国宝の絵巻物「男衾三郎絵詞」の主要登場人物の一人として非常に著名な存在となっています。
 また、武蔵七党の猪俣氏系図では男衾氏は重任一代で、その子は不動寺(無動寺)氏を名乗って、この地の北北西300mほどのところに所在する不動寺の辺りに館を構えたとされています。

確認できる遺構
地表で確認できる遺構はありません
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東西方向から山が迫り、南側を荒川支流の吉野川が流れる南北に細長い谷あいの地で、枝郷としての「谷津」や「堀ノ内」という地名が残されています。現在の状況は国道254号線と東武東上線が南北方向に縦断し、とても中世の館跡が存在したとは信じがたい光景が広がっています。また、下の写真のように南側も事実上は背景に山が迫っている地形のため、実際には北東方向のみが幾分開けたような景色となっています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「寄居町史普及版 寄居町の歴史」(寄居町教育委員会/1989編集発行)
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/08/20
訪城の記録

( 2005/08/20 )
交通量が...激しい
 男衾氏の館跡と比定されている場所ですが、東西から山が迫りほぼ南北方向に国道254線と東武東上線が縦断するというなんとも落ち着きのない全く殺風景なところです。館跡を想起されるとすれば東西の山裾に遺されているおそらく自然地形と思われる斜面部分ぐらいしかありません。この地点は小川町方面と寄居方面を結ぶ隘路となった交通の要衝にあたり、南側には小河川とはいえ吉野川の流れもありその水利権を完全に手中にすることができたものと思われます。灌漑技術の未熟な時代においてはこの地を押さえるということは田地の支配にも繋がったのではないかと勝手な想像をしているのですが。
 この日は交通渋滞こそありませんが、お昼前という時間にも拘らず思いのほか交通量が激しいので、炎天下に10分ほど立ちつくして車の通行量が少なくなった瞬間を撮影したものです。
 8月6日の土曜日に一度訪れたのですが、関越自動車道の事故にともなう渋滞の余波でこの辺りの下り方向は数珠繋ぎとなり、急遽間道を抜けて不動寺、島田屋敷方面に目的地を変更しました。

記念撮影
今回ようやく訪れたとはいっても、実際には寄居方面に向うときは毎回のように通過している場所で、写真の左手の方に所在する大日堂に車を停めて国道沿いを含む周辺を歩いただけの話です。なお、堀ノ内と呼ばれる辺りは右手の山裾付近ではないかと。
  画像にマウスを乗せると寛元2年(1243年)と刻まれた埼玉県指定文化財の大日堂の「曼荼羅板碑」の画像に変わります。
        ( 2005/08/20 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線男衾駅より徒歩20分 MapFan Web の案内図です  

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中