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島田氏屋敷
関連ページのリンク  2005/08/06の日記                 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合27
所在地
埼玉県大里郡寄居町富田
歴史と沿革

戦国時代末期の在地領主の館跡か
 下記の「寄居町史通史編」などによると、島田家は代々富田村の名主約を努めていたとされ近世初頭においては徳川家の650石の知行高を有する旗本松下氏の郷代官のような役割を担っていた模様です。島田家は武蔵国内の3か所の知行地合計250石を一括管理する割元役に任じられ役米2斗を支給されていました。(島田家所蔵の「地頭所下知状」)
 土塁の築造年代は不明のようですが、天正18年の秀吉の関東攻略以後において後北条氏の家臣の多くは帰農して村役人などの有力農民となったものも多いことから、その規模の大きさから想定しても農民支配が強化されていく近世の築造と考えるよりも、戦国時代末期の遺構として見るのが自然なように思いますがいずれにしても推測の域を出ないものです。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■町道沿いの西側には南北方向で約50m、北辺にはこれと連なる90度の角度で折れ曲がった東西方向約30mの土塁が逆L型に遺されています。土塁自体の高さは北西の角部分がもっとも高く道路から見て少なくとも3m前後はありますが、東あるいは南に進むにしたがって1.5mぐらいまで低くなっているようで、宅地化などに伴いそれぞれの先端部分で途中から消失していると思われます。
 また周辺の道路の形状からみると、本来はおそらく東西南北それぞれ100m前後の規模があったのではないかと推定されます。なお、南東方向に吉野川という小河川が北東方向に流れる台地の先端部分に占地しており、屋敷の北西部分と南東部分では約3mほどの高低差があります。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「寄居町史普及版 寄居町の歴史」(寄居町教育委員会/1989編集発行)
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行)

文化財指定
訪城年月日
2005/08/06
訪城の記録

( 2005/08/06 )
無名かもしれないけれど土塁はきちんと遺されて
  「無名の館跡だし、場所さえ確認できれば...」という程度の気持ちで訪城しましたが、築造の年代は不明ですが高さ3mにも及ぶ土塁が道路沿いの南北方向に延長約50mほど残され、またその北端から東側にも高さ2m前後の土塁が約30mにわたって続いていました。この場所に到着するまでに関越自動車道の事故渋滞の余波と思われる交通渋滞にはまり、加えてジリジリと照りつける太陽にへろへろとなりました。しかし遺構の周辺を一周半して周囲の地形を確認して、思いのほかの遺構の存在に充実した心境に。
 無名の遺構とその所有者の方にひたすら感謝を。

Best Shot?

  


 南側の一部が途中で消失していると推定されますが、高さ2mから3m、延長にして50m弱の土塁が宅地の西側を町道に沿って南北方向に伸びています。
 現地には説明版なども見受けられませんが、このように堂々とした土塁がいきなり目の前に現れたのにはやや驚きを禁じえませんでした。
 ( 2005/08/06 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線男衾駅より南へ徒歩10分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/08/06 撮影 )

■南北方向に伸びる西側の土塁を北西の角部分あたりから撮影したもの。土塁の下部は石などが嵌め込まれて土砂の流失を防いでいるようでした。
■東西に伸びる北側の土塁は歩測によると延長30m弱で高さは1.5mほどかと思いますが、夏草に覆われているので詳細は不明でした。
■近世に流行した民間信仰の一つ馬頭観音の石造物。消費者金融の看板と並んでいるところが今日的な存在感を醸しだしていました。
■北側の土塁の外側には墓地があり年代不詳の五輪塔の水輪と地輪と思われる石造物が所在していました。
 
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