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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/05の日記 明願寺館 戸崎城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合23
所在地
埼玉県加須市礼羽
歴史と沿革

一族の一人が和田義盛の乱で戦死
 「吾妻鏡」の建暦3年(1213年)の和田義盛の乱の時に義盛の三男義秀の攻撃により幕府方の数名の武士が討死しました。その中に礼羽連乗と云う名が記され礼羽氏との関連が窺がえるのみで、礼羽氏に関する事績については不詳の模様ですが、武藏七党野与党の一族という説もあるようです。
 また、付近には「番場」「早道場」など武士階層が居住していたことを示唆する地名が残されていますが、礼羽氏との関係を示すものなのか後の設楽氏との関係なのかは定かではないようです。

確認できる遺構
水堀(近世の名主屋敷の構堀か)
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東武伊勢崎線の南側約300m付近にあり南側には現在も水田が広がり、西方約2キロメートルに明願寺氏館、戸崎城、南2.5キロメートルに騎西城などが所在します。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「加須市史資料編1」(1984/加須市)
「加須市史通史編」(1981/加須市)
「加須市の文化財」(1992/加須市)
「かぞの歴史散歩」(1991/加須市)
「調査報告集第3集 加須市の地名」(1979/加須市)
「調査報告集第9集 加須市の寺院・神社」(1983/加須市)
「調査報告集第1集 加須市の青石塔婆(板碑)」(1978/加須市)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「騎西町史 中世資料編」(1990/騎西町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/11/05
訪城の記録

( 2005/11/05 )
近世の屋敷の構堀
 所在地が余りはっきりとは分からず、あたりをつけた地域をウロウロとしていると縄文時代の遺物の「石皿」が発見されたという文化財標柱が立てられているお宅がありました。そのお宅の南側の道路沿いには明らかに堀跡と思しき幅1間前後の窪みが続いています。また東隣の隣家との境には南北方向に幅3m以上で長さ15mほどの堀跡らしき大きな窪みが残されていました。もちろん当時のそのままの遺構とは思えませんが少なくとも近世の名主階層の屋敷の構堀のようなものではなかったのかと思われます。

記念撮影


 道路との段差は50cmほどで幅は1.5mから1.8mほど、道路に沿った延長は約50mほどの水堀跡。前面の道路の拡幅などにより、元々のものと比べて堀幅は半分ぐらいになっているのではないかと思われます。
 屋敷の裏側にも堀跡の形跡が残されていますが、もともとの形状などは明治期の地租の元となった古い地籍図などを調べれば多少は分かるはずなのですが。

 
( 2005/11/05 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 礼羽氏館の南側に所在する寛永2年(1625年)に創建された真言宗智山派金蓮院。江戸時代にこの辺りを知行していた徳川家の旗本設楽氏の先祖設楽兵庫頭貞清が開基とされているようです。
■2■
 現在も信仰を集めている安産と子育ての守護神である鬼子母神が金蓮院の境内の一角にあります。古代インドではハーリティ(訶梨帝母)と呼ばれ500人の子を有しながら人の子を取って食べるという鬼神でしたが、釈迦の説諭によって悔い改めて子どもを守る善神に生まれ変わりました。室町時代に日蓮宗の法華経の説話にとりあげられて庶民の信仰対象として普及したといわれています。したがって日蓮宗の寺院には鬼子母神が祀られることが多いとされていますが、こちらの寺院は真言宗でした。
画像クリックで拡大します
■3■
 昭和11年に近くの薬師堂から移設されたという金蓮院の板碑で、「調査報告集第1集 加須市の青石塔婆(板碑)」(1978/加須市) によると以前は5体存在したようですが、無残にも折り取られた跡が2か所残っていました。礼羽氏との関係は不明ですが、造立時期は14世紀始め鎌倉時代の末期の延慶年間から建武年間にかけてのものであったようです。
 画像クリックで板碑の拡大画像に変わりますが、中央の板碑は正安2年(1302年)と刻まれていました。
■4■
 金蓮院の北側の道路の両脇には現在も水路が流れていますが、この道路もかつては堀跡の一部だったのでしょうか。
■5■
 上記の堀跡と屋敷の南東の角部分でつながる南北方向に伸びる深さ80cmの水堀跡も遺されています。名主などの階層の屋敷などに比較的多く見られるようで、よく一般的にはその系譜を辿れば兵農分離以前後北条氏の時代ぐらいまではまで遡るものかもしれませんが、そうした資料などは残されてはいない模様です。
交通案内

・加須市の西方、県道305号線の東側 MapFan Web の案内図です  

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