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鐘撞山の北西の北西の角部分に設置されている加須市の指定史跡であることを示す標柱。写真の堀跡は北西から南東方向に約60mほどの長さで町道に平行して排水路の所まで伸びていました。
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最も延長距離の長い北東から南西方向に伸びている堀跡で、歩測したところでは約120メートルほどかと思いますが、南西にすすむほど堀幅は広く残されているようです。
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同上の堀跡ですが、南西部分の方が堀幅が次第に広くなって上面では3間(5.4メートル)ほどはあるようです。
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同上の堀跡を堀底に下りて撮影したものですが、屋敷林の陰になるので日中でも薄暗く夏場には薮蚊の集団攻撃を受けそうです。現在の深さは堆積物が多いので1mから1.5m程度ですが、本来は2m以上あったのではないかと思われます。
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「1」の個所の堀跡ですが屋敷林を形成する竹林の中には土塁状の連続した地面の高まりが所々に見えることは見えるのですが、写真に撮影するのには余りにも竹薮が繁茂しているため困難を極めます。
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上記の同様の堀を南東側から撮影したしたもので、左側の屋敷林の縁辺りに土塁状の高まりが見えるような気がします(^^;
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「1」の堀跡と平行する南西部分の堀跡の幅も約3間ほどありますが、倒木や枯枝も多く足場が軟弱のようなので進入を断念しました。
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同上の堀跡について少しだけ南東方向にすすんで撮影したもので、右側の篠竹の屋敷林の外側は深田の水田が広がっています。
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柔らかい秋の日差しの中で1ヘクタール近くはありそうな屋敷林の宅地の中には大正から昭和初期頃にかけて建築されたと思われる民家や大きな土蔵が残されていました。これらの建物の保存も含めて史跡公園のような形態で整備されると良いのですが、昨今の地方自治体の財政事情を考えるとそうした整備費やその後の維持管理費用の捻出の困難性が予想されます。
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武藏七党猪俣党の猪俣小平太則綱の居館とされ、その後忍城主成田氏の一族小田あたりが支配していたと思われますが、永禄6年(1563年)に上杉謙信により騎西城とともに攻略された歴史を持つとされています。
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現在は土地の所有者から加須市が寄贈をうけて、市民の皆さんと共に活用方法を検討しいてると立て札に記されていました。
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この入り口となっている門と左側の倉庫の建てられている場所は、南端部分で堀跡が北東方向に曲折しているので元来は堀跡であったように思われますが定かではありません。
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「鐘撞山之記」の碑文が刻まれた石碑が城跡の南東部分に所在する塚の上に造立されていました。大正11年1月に当時の上家の当主である上桂助により造立されたもののようです。碑文の内容は甲陽軍鑑や新編武蔵風土記稿、地元に伝わる伝承などから構成されている模様です。
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上記の「鐘撞山之記」の石碑のある塚の全景。永禄6年(1563年)の上杉謙信の襲来の時、騎西城に危急を知らせる鐘を鳴らして援軍を仰いだとされますが、両所とも圧倒的な兵力を有する謙信の軍門に降りました。
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「8」の外側は1m以上の比高差を有する水田地帯となっていました。
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