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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/31の日記  騎西城 種垂城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合29
所在地
埼玉県加須市油井ヶ島927
歴史と沿革

騎西城と共に落城
 「新編武蔵風土記稿」の油井ヶ島村の条の居所蹟として「相伝う猪俣小平六則綱が城蹟と云う、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて、城跡のさまは見えず...」と記されています。猪俣氏に関連する遺構であるかどうかについては、「風土記稿」でも推定しているように余り定かではありません。
 また「鐘撞山之記」などの伝承によれば、永禄6年(1563年)の上杉謙信の関東侵入により成田氏の一族と考えられる小田氏が居城していた騎西城と共に落城し、その軍門に降ったとされています。
 また「風土記稿」の水深村の条には曹洞宗慶雲院の縁起として後北条氏の家臣増田大善が天文14年(1545年)に合戦により討死したとの事柄が記されており、そうした後北条氏を始めとして、あるいは古河公方・成田氏・小田氏などとの勢力との関わりが想定されるような気がします。

確認できる遺構
土塁、空堀、たぶん水堀も
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■加須低地の利根川の河川氾濫により形成されたと考えられる自然堤防の微高地に所在し南東側の一辺を除き長辺部分で長さ約120m、短辺部分で約60mから80mほどの堀跡と、それにともなう土塁状の遺構が残されています。北西3キロメートルには騎西城が所在していることから、その支城あるいは有力家臣の城郭的な機能を持った居館として存在していたのかも知れません。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「かぞの歴史散歩」(1991/加須市)
「加須市の文化財」(1992/加須市)
「加須市史資料編1」(1984/加須市)
「加須市史通史編」(1981/加須市)
「調査報告集第3集 加須市の地名」(1979/加須市)
「調査報告集第9集 加須市の寺院・神社」(1983/加須市)
「調査報告集第1集 加須市の青石塔婆(板碑)」(1978/加須市)
「調査報告集第5集 加須市の金石文」(1979/加須市)   

文化財指定
1956年9月24日指定 加須市史跡
訪城年月日
2005/10/31
訪城の記録

( 2005/10/31 )
よく考えれば騎西城の目と鼻の先で
 本来は熊谷市方面を予定していましたが時間と距離の関係で断念し、加須方面については下調べが全く不十分でしたが騎西城からの距離を考えるとまさに目と鼻の先でしたので出かけてみることにしました。
 さて肝心な遺構については南東側を除いた三方に堀跡(たぶん本来は水堀かと)が遺され内側には最高でも数十センチ程度の高さですが土塁が確認できます。北東から南西方向に伸びる堀跡が一番長く約120メートルほど北西から南東方向の堀跡は東側で約60mほど、西側で80mほどの長さがあります。堀跡の最も幅の広いところは約3間ほどもあり、深さも現在は1mから1.5m程度ですが元来は2m以上の深さがあったものと思われ、内郭の土塁の本来の高さを想定すると土塁よりの内側では4mぐらいの比高差があったのではないかと思われます。
 また、屋敷跡の南東側には堀跡が90度曲がって数メートルほど伸びていました。現在、倉庫や入口となっているところは元々の堀跡を埋め立てたように思われました。平成16年に土地の所有者から加須市に対して寄付されたとの看板が立てられていましたが、その篤志には全く頭が下がる思いです。土塁と水堀の現状保存と共に昭和初期の建築様式と思われる民家を含む建物の保存も実現されるとよいのですが。
 城跡北西に所在する塚の上には「鐘撞山の記」を刻んだ石碑もあり、その地名から油井城とも呼ばれているようです。なお、このときは騎西城との位置関係や道路事情が良く飲み込めていなかったため、北側の県道の方から遠回りをしてしまいました。しかしあとでよくよく調べると武家屋敷などのあったとされる牛重の集落の道をそのまま南東へすすみ、県道149号線の信号を左折すれば徒歩でも僅か20分ほどの距離でした。

記念撮影

 県道沿いの広々とした水田の東側に特徴のある大きな屋敷林が見えます。屋敷林の手前の塚の上に「鐘撞山の記」が刻まれた石碑が建てられています。
 現在水深地区と呼ばれるこの辺りには油井ヶ島(旧村名)という地名が残されていますが、一説には武藏七党猪俣党の猪俣小平六が鎌倉の由比ヶ浜から正八幡社を勧請したことによるという説もあるようです。(「加須市の地名」1979/加須市史編さん室)また、「島」という表現は自然堤防上の微高地などによく現れる名称です。周辺は深田に囲まれ寄せ手はさぞかし難渋をしたものと推定されます。

 
( 2005/10/31 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 鐘撞山の北西の北西の角部分に設置されている加須市の指定史跡であることを示す標柱。写真の堀跡は北西から南東方向に約60mほどの長さで町道に平行して排水路の所まで伸びていました。
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■2■
 最も延長距離の長い北東から南西方向に伸びている堀跡で、歩測したところでは約120メートルほどかと思いますが、南西にすすむほど堀幅は広く残されているようです。
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■3■
 同上の堀跡ですが、南西部分の方が堀幅が次第に広くなって上面では3間(5.4メートル)ほどはあるようです。
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■4■
 同上の堀跡を堀底に下りて撮影したものですが、屋敷林の陰になるので日中でも薄暗く夏場には薮蚊の集団攻撃を受けそうです。現在の深さは堆積物が多いので1mから1.5m程度ですが、本来は2m以上あったのではないかと思われます。
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■5■
 「1」の個所の堀跡ですが屋敷林を形成する竹林の中には土塁状の連続した地面の高まりが所々に見えることは見えるのですが、写真に撮影するのには余りにも竹薮が繁茂しているため困難を極めます。
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■6■
 上記の同様の堀を南東側から撮影したしたもので、左側の屋敷林の縁辺りに土塁状の高まりが見えるような気がします(^^;
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■7■
 「1」の堀跡と平行する南西部分の堀跡の幅も約3間ほどありますが、倒木や枯枝も多く足場が軟弱のようなので進入を断念しました。
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■8■
 同上の堀跡について少しだけ南東方向にすすんで撮影したもので、右側の篠竹の屋敷林の外側は深田の水田が広がっています。
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■9■
 柔らかい秋の日差しの中で1ヘクタール近くはありそうな屋敷林の宅地の中には大正から昭和初期頃にかけて建築されたと思われる民家や大きな土蔵が残されていました。これらの建物の保存も含めて史跡公園のような形態で整備されると良いのですが、昨今の地方自治体の財政事情を考えるとそうした整備費やその後の維持管理費用の捻出の困難性が予想されます。
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■10■
 武藏七党猪俣党の猪俣小平太則綱の居館とされ、その後忍城主成田氏の一族小田あたりが支配していたと思われますが、永禄6年(1563年)に上杉謙信により騎西城とともに攻略された歴史を持つとされています。
 
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■11■
 現在は土地の所有者から加須市が寄贈をうけて、市民の皆さんと共に活用方法を検討しいてると立て札に記されていました。
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■12■
 この入り口となっている門と左側の倉庫の建てられている場所は、南端部分で堀跡が北東方向に曲折しているので元来は堀跡であったように思われますが定かではありません。
 
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■13■
 「鐘撞山之記」の碑文が刻まれた石碑が城跡の南東部分に所在する塚の上に造立されていました。大正11年1月に当時の上家の当主である上桂助により造立されたもののようです。碑文の内容は甲陽軍鑑や新編武蔵風土記稿、地元に伝わる伝承などから構成されている模様です。
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■14■
 上記の「鐘撞山之記」の石碑のある塚の全景。永禄6年(1563年)の上杉謙信の襲来の時、騎西城に危急を知らせる鐘を鳴らして援軍を仰いだとされますが、両所とも圧倒的な兵力を有する謙信の軍門に降りました。
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■15■
 「8」の外側は1m以上の比高差を有する水田地帯となっていました。
交通案内

・国道122号線鴻茎の交差点から県道149号線を北東に約2kmすすんだ東側
MapFan Web の案内図です  

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