城館跡の名称 |
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関連ページのリンク |
2005/11/21の日記 伝源経基館 伝安達盛長館 |
おすすめ評価 |
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合22 |
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所在地
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埼玉県鴻巣市箕田・宮前 |
歴史と沿革
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■箕田源氏の館跡との伝承
「鴻巣」の地名は戦国時代の末期に記録に登場し、それ以前の地名としては武藏国足立郡の馬室郷・箕田郷と呼ばれていました。「鴻巣」の地名のおこりは、荒川などの河川に挟まれた小高い台地状地形を「高州」(こうのす)と呼ばれたことから定着したと考えられています。そして、この三ヶ所の発掘による中世城館の遺構が確認された場所はまさにそうした台地上に存在しています。
伝蓑田氏館跡(久右衛門遺跡)は三ヶ所の館跡の中で最も北に所在し部分的な発掘調査により12世紀末から14世紀を中心とした館跡の遺構と遺物が出土しています。この地域は「殿山」ともいわれ、箕田源氏の祖となったとされる源仕(みなもとのつこう)の館跡という伝承があり、同所に所在する箕田2号墳と呼ばれる古墳は仕とその妻子の墳墓として「三士塚」と言い伝えられてきたとのことです。「鴻巣市史」では、10世紀中葉の源仕の時代と大きな隔たりが存在するものの、箕田源氏の系譜を引く武士の居館であった可能性が高いとしています。
また他の2か所の館跡でも館の主などの伝承などは存在しないものの、発掘調査の成果から13世紀から16世紀にかけて館としての営みのあったことが推定されています。伝箕田氏館を含むこれらの三ヶ所の館跡はその地理的な近さから考えても、そうした蓑田氏に関係する館跡である可能性は高そうに思われますが定かではありません。
■箕田源氏にかかわる人々(「続群書類従」所収の「松浦系図」より)
嵯峨天皇の皇子である左大臣(822-895)源融の孫にあたる前武藏權介源仕は延喜19年(919年)に武藏の国衙を略奪・焼討ちしたことが「扶桑略記」に記されています。このことから、源仕は赴任した武蔵国で土着して国衙と対立するだけの軍事力を備えていたとされています。
その子源宛(充)は「今昔物語」で平良文(村岡五郎)との騎乗の弓矢による一騎打ちを行ったという説話で有名ですが、それによれば五、六百人ばかりの兵を率いていたとされ箕田源氏を称したとされています。
また、さらにその子の源綱(渡辺綱 935-1025)は摂津渡辺党の祖となり、源頼光の家臣の四天王の一人として酒呑童子や鬼女退治の説話に登場します。
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確認できる遺構
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なし |
構造的特徴および
周辺の地理的特徴
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■三ヶ所の館跡は全て荒川左岸の中世から存在したとされる大宮台地と呼ばれる舌状台地の古道沿い周辺に所在し、またこの古道を南東に辿ると伝源経基館跡へと続いています。
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参考資料
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「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「鴻巣市史 通史編1」(2000/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編1考古」(1989/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編2古代・中世」(1991/鴻巣市)
「鴻巣の文化財 第3号 鴻巣に活躍した人々」(2002/鴻巣市教育委員会)
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文化財指定
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無 |
訪城年月日
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2005/11/21 |