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足利基氏館
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 2004/11/25の日記  善能寺館 善能寺塁
所在地
埼玉県東松山市大字岩殿字油免1051周辺
歴史と沿革

 現地の案内板、「東松山市史」等によると足利尊氏の次男、足利基氏(1340年生〜1367年没、1349年に初代鎌倉公方となる)が1363年の芳賀高貞(宇都宮氏の一族)の反乱に伴い、岩殿合戦に際して元々所在していた地方豪族の居館を陣城としたものではないかと記している。基氏はその岩殿合戦で勝利し下野へと転戦し、小山の宇都宮氏を屈服させている。その豪族については比企氏という推定もあるようだが、詳細は不明とのことである。
 したがって、この案内版にもあるとおりこの遺構の東松山市での正式な呼称は「足利基氏の塁跡」としている。また、岩殿合戦の前に行われた苦林野の合戦では坂戸市の善能寺付近に陣を張った模様であり、両者の遺構とも繋がりがあるらしい。

確認できる遺構
土塁、空掘、物見台
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

 越辺川の支流九十九川が直ぐ南側を流れる岩殿丘陵の谷沿いの南側斜面に位置している。北側には高坂カントリークラブのゴルフ場があり、空堀が埋まるなど遺構の一部が変質している模様である。

参考資料、古文書、記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「東松山市史 資料編第1巻」(東松山市/1981編集発行) 
「東松山の歴史 上巻」(東松山市/1985編集発行)

文化財指定
1965/08/10東松山市指定文化財 「足利基氏の塁跡」
訪城年月日
2004/11/25
訪城の記録

<<2004/11/25>> 足利基氏館は東武東上線高坂駅の方向から県道212号線を西へ向かい関越自動車道を越えると、斜め右に曲がる所に比較的大きな案内表示板もあり分かりやすい。そのあと、高坂カントリークラブの南側を通る、幅員4m弱という舗装道路を北北西に1キロほど進む。徒歩の場合であればまず問題ないのですが、車の場合にはすれ違いの問題が気になり、そのためについうっかりと行き過ぎる可能性があります。正直に言えば見落としましたです(^^;。
 車で行くならば、子ども動物公園の信号を右折。下の写真にある弁天池という比較的大きな池をを目指し、途中で車を止めて徒歩で行くほうが分かりやすいのでは。ひとつ不思議なのは、弁天沼の北側にある墓地の西側の細い坂道の左側に沿って、どう見ても土塁としか思えない連続した固められた盛り土の壁があります。大きさは奥行き3mから4m、高さ1mから1.5m、長さ20m以上というところでしょうか。これって、普通は土塁って云うんでしょうね。ただ何時の時代のものなのか不明です。「東松山市史」では遺構としては見ていないようですし。そのうち判明しましたらご報告を。正法寺関係のものかもしれませんが。

 


■クリックで拡大します。
 遺構の一番東側で、正面の小さな丸い土塁が物見台跡らしい。手前の谷津は棚田になっており、城館跡と絶妙な組み合わせの風景である。左側の畦道にしては少し幅の広いところを進んでゆくと左側に立派な案内板があります。案内板のあるあたりから、畦道が土塁となっているように思います。右側の段差も土塁のような気がするのですが。
 <<2004/11/25 撮影 晴れ>>
交通アクセス

 上記訪城の記録参照


<<2004/11/25 撮影 晴れ>>
 弁天池、「泣かずの池」ともいうらしい。正面の斜面に墓地が広がっており、下の写真の板碑はその墓地の中にある。訪城したときは、墓地の拡張工事のようなことが行われていた。
 これがなぞの土塁で、奥行き3mから4m、高さ1mから1.5m、長さ20m以上というところでしょうか。始めはこれが遺構かと勘違いしたぐらいですから(^^;
 ゴルフ場の造成に伴う残土、或は高圧線の設置に伴う残土という考え方もありますが。
 高さ2.61メートルの正法寺阿弥陀堂跡に所在する板碑。東松山市指定文化財
 先ほどの土塁が下の民家の宅地の中へと続き、硬くつき固められた様子が窺えるが。
 先ほどの板碑の解説版で、これによれば応安元年(1368年)に建立され、真言密教の功徳をあらわしているという。
 西側の土塁。手前の部分はだいぶ風化も進み消滅しかかっているような様子です。
 西側の土塁を接近して撮影するとこんな感じに。
 城館跡の説明版。東松山市は南のほうにある自治体と違い、こうした説明版が良く整備されているようです。文化財保護の基本的な手法で、説明版1枚でもあると無いとでは大違いです。石垣や天守閣があれば誰だも凡そのことは分かりますが、関東の中世城館は基本的に土塁と空堀の土木技術の結晶なので関心のない人にとっては単なる地面の凹凸に過ぎなくなります。そうしたものを保全していくための最低要件の一つとして、地権者の同意を得て、こういった説明版を設置することがあるのではないかと思います。
 正面が物見台のような土塁。左側も土塁でこの左側から西に向かって土塁が続く。右手のものも土塁だと思いますが。
 西側に続く土塁で、このあたりが高さ約2m、幅3m以上と一番規模が大きいように思う。
 前の土塁の直ぐ北側にある空堀ですが、当時に比べて北側の造成工事などでかなり浅くなっているように思われます。
 道路沿いから見るとこんな風景ですので、徒歩であれば行き過ぎる事はまず無いと思います。向かって右側の住宅は新しい木造の三階建てになっています。それも目印。
 付近の民家の畑の端のたわわに実る柑橘類。
 
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