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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく、主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです(汗)
関連ページへのリンク  2006/11/のブログ 五厘沼遺構 羽尾堀の内
所在地
埼玉県比企郡滑川町羽尾
遺構まがいの地形
空堀(堀切)畑の根切り溝と断定
城館遺構の可能性
 0%
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

何も無いのが当たり前にて
 北側を除く三方が丘陵に囲まれた羽尾大沼。現在は西側の丘陵地帯に森林湖霊園の墓苑が開発されるとともに、丘陵も全体としてなだらかな地形のため遺構の存在する可能性などは皆無。そのなかで唯一東側の南北方向にのびるなだらかな丘陵の途中に空堀(堀切)状の地形が所在。然しこれは当方のような未熟者がいくら想像を逞しくしても、正しく「畑の根切り溝」(竹の節の数からして築15年ほどかと推定)以外の何物でもないようです。 

訪城年月日
2006/11/18
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/18 )
120%畑の根切り溝と確信
 羽尾大沼」付近の丘陵地帯を探索。 羽尾大沼の西岸には「森林湖霊園」の墓苑が所在駆る場所にてまず何もあるはずの無い地形にて。些か気になるのが大沼南側に所在する丘陵。 このため南側と、東側を中心に散歩がてらに沼の周りを徘徊。 当然の結果として、「柳の下に泥鰌」はそうそう棲息していないことが判明致居候。 南側の気になる独立丘陵状地形も地元の方の旧来の墓地が所在するのみにて。なおこの日確認できなかった西側については後日別途歩き回ったものの、物凄い迫力の篠竹などの藪に阻まれて地表の地形の確認は至難であることが判明した次第。
 なお、せっかくだったので、「確実に畑の根切りと断言できる溝跡」などを検証して遊んでしまった(笑) また、沼の南側を迂回する山道にて、斜面に建つ電気設備の無いような一軒家の存在に目を取られているうちに足元が疎かとなり、枯枝に足をとられて見事に前倒し状態に。 幸い最初に着地した右膝には、山城バージョンの3重サポーターにてがっちりと保護。 まさに「転ばぬ先の杖」の例えを実践..
然し、このとき些か掌を痛めた模様にて候。(1ヶ月が経過しても未だに微妙な痛みが...)

クリックで拡大します
 隣接する山林に生育する竹木の耕作地への根の繁殖を抑えることや畑の排水などを目的とした、所謂「畦堀」「畑の根切跡」かと推察仕候。丘陵を部分的に横断する配置ではありますが、自分が常々妄想に近いものの見方をするとはいえ、これに関してはほぼ100%の確率で近年のものと断定..
 尤も、3年前ならば、おそらく真剣に悩んだかも知れず..そのあたりが我ながら実に情けなく..しかし、これがあと30年も経過すると「不詳の遺構の発見」となる可能性も無きにしも非ず...な訳はないか(笑)
( 2006/11/18 撮影 )
訪城アルバム
由緒正しい「畑の根切り溝」 画像クリックで拡大します
■1■羽尾大沼とその周辺
 南側の一部を除けば緩やかな丘陵地帯なので、中世城館跡に繋がるような遺構があるはずが無いと自信を持って断言できそうな地理的条件なのでありました。
交通案内

・滑川町羽尾「森林湖霊園」の周辺
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室) 

・2006/12/26 HPアップ

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