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茨城県つくばみらい市の城館索引へ戻る  板橋城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/07のブログ 小張城 山王台 愛宕山の遺構
所在地
 茨城県つくばみらい市板橋
歴史、人物、伝承

戦わずして落城か
 近世初期の成立と推定される「土岐・岡見一族旗下家臣等覚書」(「諸岡文書」)では「月岡玄蕃 板橋の城主」とされ、また紀州藩士岡見久映(おかみひさてる)により文化年間に編纂された「岡見氏系図」では岡見宗治の事跡中、天正8年の矢田部城の奪回に際し只越入道全久と共に「月岡玄蕃 <常州板橋城主>」が出陣したことが記されています。さらに「多賀谷家譜」などでも「常州板橋城主月岡玄蕃」とし、「岡見氏本知行等覚書」(年次等未詳)ににも「板橋 これは月岡上総介居城、牛久(岡見氏)の旗下なり」とも記されております。
 以上のようにその多くがあくまでも近世以降に成立した史料に基づくものですが、足高あるいは牛久を本城とする岡見氏重臣月岡氏がその居城としていたものと考えて差し支えないものと思われます。
 また前出の「土岐・岡見一族旗下家臣等覚書」においては、月岡氏の「家来の面々」として「濃島日向 板橋の内西山に住す」「猪瀬内蔵助 明神前に住す」と2名の家臣の存在が記されています。このうち西山は現在の不動院の西側の舌状台地を、明神前は不動院西隣の八坂神社付近をそれぞれ指し示すものと推定されます。
 なおこの月岡氏がこの地域の歴史の舞台に登場するのは、前述の如く天正8年の矢田部城の奪回に参戦したことと、天正15年(「東国戦記実録」では天正14年)とされる多賀谷氏の攻勢にともなう板橋城降伏開城の2度にすぎないようです。
 ただし仮に西側の小張城が落城し、東側の三条院城が多賀谷氏により築城されたとしますと、東西からの挟撃により物資・人員の補給は困難を極めるため持ち堪えることは到底不可能であるものと考えられることから、板橋城の落城時期については天正14年説もあながち無視できないようにも思われます。

確認可能な遺構
 外郭部の土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月7日 8時45分から9時40分
訪城の記録 記念撮影

 昔の面影いま何処
 「伊奈町史」などによりますと、小張城推定地の東南東約1kmに所在する、通称「城山」地区が城跡の中心部と推定されています。 しかし残念ながら当地にはさほど明確な遺構は現存せず、その代りに北側の台地続きの部分を隔する外郭土塁が断片的とはいえ明確に残存しています。
 外郭部分には概ね土塁のラインに沿ってかつての堀跡に相当すると思われる公道があり、断片的に残存する遺構状態を観察するには誠に好都合でもあります。
 さてこの板橋城は西隣の小張城と比較した場合には、明らかに伊奈台地からの自立性を欠く地理的条件となっています。このため台地の北西から南東部にかけて、城域の北東側を南北方向より入り込んだ谷津田のラインに沿う形で、延長にして約400m以上の長大な堀切と土塁による外郭線の構築が必要とされることとなったものと考えることもできます。
 ただしこの長大な外郭線は最も重要な防御ラインであると同時に、その延長距離の長さゆえにこの方面の守りだけでも数百名という多数の兵力を必要とすることからこの城郭最大の弱点であったものと考えられます。このため足高、牛久を始めとして、土岐氏、相馬氏等の支援がなければ多賀谷氏の攻勢に耐えきれないことは自明の理であることから、岡見氏などによる後詰が殆ど期待できない状況下では城主の月岡氏は開城に応じたのかも知れません。

( 2009/01/20 記述 )
「板橋城」不動尊北側の土塁跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
板橋城外郭部の土塁跡
( 2008/12/07 撮影 )
訪城アルバム
板橋城の台地 ⇒ 画像クリックで拡大します
三条院城の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 板橋城遠景(左手が主郭と推定される城山)
 40年以前に刊行された「日本城郭全集3」によれば、「板橋城 城址は筑波山の余脈に連なった台地にあり、根子屋橋から見れば、絶壁の上に見られる。ここは、天然の要害で、堅固な城であったと思われる。城主は月岡広秀である」と、実になんともそっけない記述が掲載されています。
 またさらに「日本城郭大系」に至っては、巻末の一覧に「板橋城 月岡広秀の居城」と記されるのみです。
 この画像を見れば分かるように道路からの比高差は僅か10mに満たない台地で、現状では台地斜面も一部を除いてさほどの急勾配を形成しているとは言い難い状況です。
 また城跡を縦断する県道19号線が舗装拡幅され南麓には市立体育館、総合運動公園などの公共施設が建設され、城跡周辺の景観もその当時とは全く様変わりしておりました。
凸2 目と鼻の先の三条院城
 「町史」によりますと、この三条院城は天正年間に板橋城等の攻略のため多賀谷氏により築城されたとの説もあるように、その真偽の程は別として、確かに小さいながらも居館としての要素を排除した極めて軍事的色彩の濃い城郭です。
 また遺構の保存状態は土取りが行われた東側部分を除き、舟入を始めとした城郭関連の諸施設が良好に残されています。
 板橋城からは南東へ僅かに1km程の距離しかなく、戦国時代当時には台地続きであったことから、多賀谷氏が仮に足高城との間に挟まれたこの地に城郭を築いたとすれば正に大胆不敵な所業と評価すべきなのかも知れません。なお古宿の台地(画像左側部分)を板橋城の一部と考えた場合には、その間の距離は僅かに200mという指呼の間となります。
 その一方で、どちらかといえば受け身に回っていたとはいえ、八崎城の場合の対処と同様に岡見氏の対応には大きな瑕疵があったということになるのでありましょうか。

板橋城の外郭東端部付近
板橋の不動尊 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 板橋城外郭東端付近
 以前にはある程度の深さを有していたと思われる谷津田の付近にも交差点の改良事業、宅地造成、新しい道路の建設などにより大きくその地形が改変され、かつての天然の防御線は部分的にその痕跡をとどめているに過ぎませんでした。



凸4 板橋不動尊
 城跡よりも遥かに有名なのが「板橋の不動尊」(本尊の不動明王像は国の重要文化財、本堂・楼門・三重の塔など建造物は埼玉県指定文化財)ですが、この地を訪れたのは何と半世紀ぶりのこと。
 当時の境内は鬱蒼とした竹林に覆われていたという印象が強烈に脳裏に焼き付いておりましたが、現在では多くの参詣客が訪れるなかば観光地のような景観に変貌して半世紀前の面影はとうの昔に消滅していたようです。
 正式な名称は真言宗清安山願成寺不動院で、同寺の縁起によれば大同元年(808)弘法大師が本尊の不動明王を彫り上げたと伝わっています。
 

板橋城の外郭西端部付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
板橋村の鎮守八坂神社
凸5 板橋城外郭の西端付近
 「伊奈町史」による長大な外郭線の西端部に相当する辺りの地形ですが、かつての堀跡や土塁の存在を窺い知るためには一定の豊かな想像力を必要としているのかも知れません。
凸6 板橋村鎮守八坂神社
 天正9年に月岡播磨守が創建したと伝わる西山地区に所在する板橋村の鎮守で、現在でも多くの人々の信仰を集めている様子が窺えました。
 なお外郭土塁は当社の裏側には殆ど見当たらず、さらに西側に所在する鹿島神社の社殿裏の方に所在しています。
交通案内

・板橋不動尊が目印

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)、「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)

「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)足高在住の著者により近代に成立した軍記物
⇒このなかでは只越入道全久の奮戦ぶりとは非常に対照的な描かれ方がなされ、「・・豊島(濃島か)日向が進み出でて申すには、【敵の大軍を合わせると味方は僅かに百分の一であるので、味方がいくら勇敢でも勝戦とはならない。城を明け渡して降参する以外にない】と言ったので、月岡玄蕃を始めとして臆病神に憑りつかれて誰一人として戦うことを主張したものはいなかった」と記され、こののち月岡玄蕃は糟内へ移りその居城である板橋城は青木治部・豊島日向に預けられたとされています。

「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)、「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「牛久市史 原始古代中世」(2004/牛久市)
「取手市史通史編」(1991/取手市)、「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)、「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「守谷町史」、「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)、「水海道市史 上」(1983/水海道市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■史料
「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)

■その他
つくばみらい市公式HP

・2009/01/20 HPアップ
・2009/01/22 記述追加訂正
・2019/06/14 画像ズレ補正
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