素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。
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2008/12/07のブログ 凸小張城 凸山王台 凸愛宕山の遺構 | |
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茨城県つくばみらい市板橋 |
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外郭部の土塁 |
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なし |
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2008年12月7日 8時45分から9時40分 |
( 2008/12/07 撮影 ) |
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・板橋不動尊が目印 |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ■郷土史・歴史関係 「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店) 「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、 「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)、「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社) 「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)足高在住の著者により近代に成立した軍記物 ⇒このなかでは只越入道全久の奮戦ぶりとは非常に対照的な描かれ方がなされ、「・・豊島(濃島か)日向が進み出でて申すには、【敵の大軍を合わせると味方は僅かに百分の一であるので、味方がいくら勇敢でも勝戦とはならない。城を明け渡して降参する以外にない】と言ったので、月岡玄蕃を始めとして臆病神に憑りつかれて誰一人として戦うことを主張したものはいなかった」と記され、こののち月岡玄蕃は糟内へ移りその居城である板橋城は青木治部・豊島日向に預けられたとされています。 「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)、「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町) 「牛久市史 原始古代中世」(2004/牛久市) 「取手市史通史編」(1991/取手市)、「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市) 「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)、「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市) 「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市) 「守谷町史」、「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)、「水海道市史 上」(1983/水海道市) 「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。 ■史料 「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版) ■その他 つくばみらい市公式HP ・2009/01/20 HPアップ
・2009/01/22 記述追加訂正 ・2019/06/14 画像ズレ補正 |