素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。
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2008/12/07のブログ 凸山王台 凸愛宕神社の遺構 | |
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茨城県つくばみらい市小張字城山 |
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確実な遺構としては台地北部の鹿島神社脇に土塁跡が残存するのみ |
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なし |
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2008年12月7日 7時50分から8時25分 |
( 2008/12/07 撮影 ) |
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・水田面からの比高差は約10m、つくばみらい市小張小学校校庭付近が主郭と推定されています。 |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社) ■郷土史・歴史関係 「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)、「国史大辞典」(1986/吉川弘文館) 「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、 「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房) 「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房) ⇒「多賀谷勢小張板橋ノ城攻落ス事」の段によりますと、真壁、下館、石下、豊田、猿島などから総勢一万三千人の軍勢を以て攻め込んだ旨が記されていますが、当時の多賀谷氏の勢力範囲の人口から想定しますと、仮に佐竹からの支援を受けたとしても多くとも二千人前後が限度であるものと思われます。(後北条氏滅亡後に豊臣秀吉より安堵された多賀谷氏の領地の石高は凡そ6万石)対して小張城側の人数は400騎とされていますが、これをそのまま素直に400人と考えれば同時における周辺部の農村人口等から推定する限りでは、おおむね当地における最大かつ妥当な動員兵力であるものと考えられます。 「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社) 「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)、「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町) 「牛久市史 原始古代中世」(2004/牛久市) 「取手市史通史編」(1991/取手市)、「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市) 「守谷町史」、「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)、「水海道市史 上」(1983/水海道市) 「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。 ■史料 「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版) ■その他 なし ・2009/01/17 HPアップ
・2019/06/14 画像ズレ補正 |