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茨城県つくばみらい市の城館索引へ戻る  足高城の遠景 足高城 足高城の物見台
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/07のブログ 板橋城 小張城 三条院城
所在地
 茨城県つくばみらい市城中、東栗山
歴史、人物、伝承

足高岡見の本拠地
 岡見氏後裔とされる紀州藩士岡見久映により文化3年(1806)に編纂された「岡見氏系図」によりますと、岡見氏には下総国平姓相馬氏と常陸国源姓小田氏があり、夫々岡見の地に居住して岡見氏を名乗ったが、足高岡見氏(あたか/おかみし)は小田の系譜であると記され、また天正18年(1590)の後北条氏滅亡により足高の所領を失ったという経緯とともに、最後の城主として足高城主中務大輔宗治の名を記しています。
 一方「多賀谷家譜」によりますと、天正8年(1580)に当時既に多賀谷氏方となっていた矢田部城を一時的に攻略した岡見氏勢として牛久城主に続いて「足高城主尾上(岡見)中務少輔」の名が記されていますが、この両名については恐らく同一人であるものと考えられます。
 なお、多賀谷氏による足高城の攻略時期は「岡見氏系図」では天正16年(1588)、「多賀谷氏家譜」では板橋城、岩崎城の攻略に続く天正15年(1587)と記されていますが、何れにしましても多賀谷氏の再三の攻勢により岡見氏は次第にその領地を蚕食されて劣勢に回っていたということは想像に難くありません。
 また足高岡見氏は後の元和9年(1623)に紀伊徳川家に知行300石の藩士として仕官が叶い、岡見家は現在に至るまでその家名を伝えています。
 

確認可能な遺構
 堀跡、土塁、郭、切岸、腰郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月7日 13時10分から14時30分、2009年1月10日再訪
訪城の記録 記念撮影

 足高城の領域
 現在足高城に関連すると思われる遺構については、城中、東栗山、足高の三地域の広範囲にわたり存在しています。 このうち中心部と考えられている部分は城中八幡神社の周辺に残存していますが、宅地化による消滅・改変が進行すると共に、一部を除いてその多くは民家の宅地内或いは叢生する竹林内に所在しているという事情のため直に遺構を観察することはかなり難しくなっています。
 また足高城の領域については、「図説 伊奈町史通史編」によりますと「近世の絵図」(文化7年の作)を元にして伊奈台地北西部の千手院付近までを外郭部分であると想定をしています。 確かに東小学校の北側には土塁の断片が現存しているという事実からも肯けるものがあります。然し足高城の防御という面から考えますと、城中八幡神社周辺の中心部と比較して3倍以上の面積を占有することとなり、かなり不整形な舌状台地とはいえども東西方向約800m、南北方向約800mという規模となり、牛久岡見氏の庶流にあたると考えられる当時の足高岡見氏の勢力から考慮した場合には余りにも広大すぎる城域を抱え込むこととなってしまいます。
 この点について、多賀谷氏の家臣の覚書と推定される「野口豊前守戦功覚書写」(「常総遺文」より)によりますと、「天正15年(1587)に足高城の城攻めを行ったが攻撃の手筈が整わず多賀谷信濃以下6人の武士が討死を遂げたため退却した。このとき野口らが退却の殿(しんがり)を努めて軍勢を返して敵の首級をひとつあげた」旨が記されています。この覚書をそのまま鵜呑みにできないまでも、足高城を巡る攻防の規模(双方合わせて多くとも数百人程度か)を想定する目安になるのではないかとも考えられます。
 無論岡見氏の本城である牛久城に配置された後北条氏側の城番が、この足高城についても適用されていたとしたら大きく事情が異なりますが、実際には後北条氏側の積極的な支援も得られることなく、多賀谷氏の再三の攻勢により落城しているということからも本格的な城番が配置されることは無かったものと推定されます。
 元禄郷帳によりますと、足高城に属すると推定される主な村落の石高は沖積平野部の新田開発後においてさえも、城中村644石余、栗山村347石余、足高村853石余、神生村314石余に過ぎません。戦国時代末期においては、その生産力はさらに少ないことが予想されますので、この方面からの兵員の動員力は如何に多めに計算したとしても100名足らずという結果になります。
 足高城の広大な領域は、板橋城、小張城などでも想定されるように、周囲を沼地に囲まれて台地部分以外には居住が難しい地理的条件下においては必然的に支配下の集落、家臣団屋敷を取り込まざるを得なかったのものと考えられます。また前記の「近世の絵図」自体もかなり大まかな略図であることから、以上の事情と合わせて南北方向から自然地形の谷津田が入り込んだ東栗山西側の地峡部あたりまで(「凸6」の個所)を外郭部分と想定した方が無難のように思えます。
 このため瑞源寺館の土塁および東小学校北側の土塁遺構等については、「同史」でも触れているように外郭的機能も併有した家臣団屋敷(在地土豪階層)などに関連するものではないかと考えられます。なお、足高城の本城の北限については牛久城の事例を参照する限りでは、恐らくは城中八幡神社の北方約300mの地点辺りまであたりではないかと思われます。
                                                  ( 2009/02/02 記述 )

足高城主郭東側の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
深さ10mを測る足高城主郭東側の堀跡 ( 2008/12/07 撮影 )
 現状はかなり埋まっているようですが、それでも空堀の深さは自然地形の比高差を含みますと10m以上の規模を有しています。画像右側が主郭の切岸部分に相当するはずです。
訪城アルバム
足高城の物見台 ⇒ 画像クリックで拡大します
足高城の土塁跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 城中八幡付近の物見台跡
 比較的名の知られた戦国期足高岡見氏の居城ですが、城郭関連遺構は広範囲にわたるものの城跡の大半は宅地化されています。こうした中で最も見学しやすい遺構がこの神社社務所前の高さ3mほどの物見台(櫓台)です。
凸2 城中八幡参道脇の土塁
 左の物見台と平行するような位置に築かれている高さ約1m、長さ約80mほどの土塁で、その配置から見て本来は主郭南辺を防御する役割であったものと捉えられているようです。⇒同じ土塁を東側から撮影


城中八幡神社
竹林により難攻不落の足高城主郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 城中八幡神社の社殿
 この城中八幡付近には比較的見学しやすい土塁、空堀等の遺構が存在しています。
 なお北側の外郭付近にも明確な土塁遺構等が数か所に分かれて現存していることから、城跡としての領域をどのように捉えるかによりその広さに対する認識には大きな違いが発生してくるものと考えられます。
凸4 主郭部分と推定されている竹林
 遺構は残されているものの見学不可能な物凄い竹藪もしくは宅地の内部というような事例が多くその全容を確認することは困難になっているという印象です。
 この主郭付近もその先の旧家の屋敷林となっているようで、仮に許可をいただけたとしても、この先10mほどくらいしか進めそうにありませんでした。

民家の敷地内に残る堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
足高城大手付近(推定) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 城中の地名表示
 この地名標識のちょうど後方あたりのお宅の庭先付近にぱ、空堀跡の一部と推定される遺構が残されておりました。
 足高城の中心部とそれ以外の外郭部を分ける遺構の一つとも推定されています。
凸6 東栗山の地峡付近
 足高城の広大な領域は、板橋城、小張城などでも想定されるように、周囲を沼地に囲まれて台地部分以外には居住が難しい地理的条件下においては必然的に支配下の集落、家臣団屋敷を取り込まざるを得なかったのものと考えられます。近世に作成された絵図自体も、かなり大まかな表現であり、以上の事情と合わせて南北方向から谷津田が入り込んだこの付近までを足高城の外郭部分と想定してみました。

足高城の関連遺構の北限付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
千手院 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 北部の土塁遺構等
 足高城に関連すると推定されている遺構の中で、最も北側に所在する土塁遺構です(画像の右側部分)。
点在するそのほかの土塁遺構
東栗山東端の土塁と堀跡遺構
凸8 千手院
 「図説 伊奈町史通史編」で、空堀により遮断された外郭部分の外側と推定されている個所に所在している寺院。
その推定堀跡
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「茨城県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「東国闘戦見聞私記」(1997復刻/常野文献社)
「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)
「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「牛久市史 原始古代中世」(2004/牛久市)
「水海道市史 上」(1983/水海道市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■史料
「岡見氏系図」「多賀谷家譜」「野口豊前守戦功覚書写」(「常総遺文」より)−以上の史料は「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)より引用しました。

■その他
なし

・2009/02/02 HPアップ
・2019/06/14 画像ズレ補正
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