福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
福島県棚倉町の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/16のブログ 赤館 白川城 河東田城
所在地
 福島県東白川郡棚倉町
歴史、人物、伝承

丹羽長重の築城
 元和8年(1622)常陸国江戸崎2万石から加増を受け棚倉5万石の地に転封された丹羽五郎左衛門長重(丹羽長秀の嫡子)が、2代将軍徳川秀忠の命により寛永2年(1625)から新たに築城を始めたとされていますが寛永4年()完成を目前にして長重は白河に転封となります。久慈川の河岸段丘上に築城され茨木街道を押さえ関東への入口を固める役割があったものとされています。別名を「亀ヶ城」とも。
 本丸の外側に二の丸、北西側に三の丸(林曲輪とも)が配置され水堀からなる塁線は要所要所に横矢がかかるように縄張りされた土塁と水堀の近世城郭です。
 その後の藩主は内藤氏、太田氏、松平氏、小笠原氏、井上氏、松平氏と変遷を繰り返しし慶応3年(1867)には白河藩より移封された禄高10万石の阿部正静が最後の藩主。慶応4年(1868)戊申戦争では戦火に遭い6月24日に城下町と共に炎上し落城しました。

確認可能な遺構
 本丸、土塁、枡形、水堀(見学できた本丸周辺のみに限定)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月16日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/20 )
 日没コールド
 この日訪れる予定の中ではメインのひとつであるにも拘らず、ようやく訪れることができたのは既に日没直前という余りの無計画さに我ながら呆れるような不始末。城郭関連資料に記されている通り、明確に存在している遺構は内堀に相当する四方の水堀とこれらに囲まれた本丸部分。本丸の広さと比較すると堀幅40m近くと大規模な点が非常に印象的でした。
 然し観光的要素を備えた城址公園という性格のためか、水堀の四隅には噴水設備が設置され盛大に水を噴き上げておりました。このためどちらかといえば無名に近い中世城館の方に親しみを感じる管理人しましては、誠に申し訳なく存じますどうしても些かの違和感を感じてしまうのでありました。
 なお近くの長久寺に移築されている城の南門については、小雨と日没コールドのため見学までには至らずじまいとなり、西側外郭部分の石垣遺構、並びにその他の城郭の痕跡を辿ることを含めて再訪予定リストに追加することとしたのでありました。

「棚倉城」南西隅の水堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
横矢構造の「棚倉城」南西隅の水堀
( 2008/06/16 本丸西側より撮影、ただし露出調整の上ASA800 )
訪城アルバム
「追手門跡」の立札 ⇒ 画像クリックで現地解説板へリンクします
福島県天然記念物指定の「けやきの古木」 ⇒ 画像クリックで現地解説板へリンクします
凸1 追手門跡
 本丸東側の追手門跡...とはいっても、現状は砂利敷きの駐車場。ただしその片隅には平成17年発掘調査の成果等を詳細に記載した解説板が設置されています。
 6か所の礎石とその配置から四脚高麗門と推定されているとのことですが、もののついでに礎石および柱穴の大きさなども明示していただけると大変嬉しいのであります。
 一方大手枡形付近に設置されている城址の案内板の方は、どちらかといえば簡潔な記述なのでありました。
凸2 福島県天然記念物の大欅
 城跡の説明板ではなく、城跡に所在する県指定天然記念物推定樹齢620年の大ケヤキの説明板なのでありました。
 なお、平成20年4月現在においても棚倉城、赤館などの城館跡については、別段文化財としての指定を受けていない模様です。棚倉城は大ケヤキに比べ確かに年代は新しいには違いありませんが、県立公園とはいえこれだけの城郭遺構が史跡指定されていないというのも実に不思議な事象かと思われます。

「東側水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「大手枡形門跡と亀ヶ城址の石碑」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 本丸東側水堀
 水堀に噴水...確かに理屈に適っているといえば言えなくもない極めて微妙な光景でありました。
 どうにか噴水のないポイントとを探して、とりあえずは北辺水堀の西側部分南辺水堀の中央部分(リンク画像の中央付近が本丸南東の出枡に相当するはずです)を撮影してみました。
凸4 本丸大手枡形門跡
 大手枡形は棚倉城の古図(「主図合結記」より部分引用−日本城郭資料集−蔵書付図)では本丸の南東側に明瞭に描かれていますが、現状では向かって右側の土塁跡が僅かにその形跡をとどめているのみでありました。

「本丸東側土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「南側水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 本丸東側土塁
 上記「3」の水堀の内側に相当する本丸土塁で、高さはおよそ5mから6mほど。東側土塁の上部は幅約7mほどで延長距離は200m以上の直線でジョギングができるような按配でありました。
凸6 本丸南側水堀
 構図の良さそうなポイントは、このようにどうしても噴水が写り込んでしまうのでありました。木の枝の陰に噴水を持っていったとしても構図がいまひとつで...

「櫓門跡」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「城址公園のベンチ」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 櫓門跡
 本丸南東部の大手枡形と本丸を仕切る位置に所在していたものと思われます。背後の土塁はおそらく本丸南側土塁の一部に相当するはずです。
 前記の古図や現地案内版などには北東、北西、南西、南東、東の計5か所の櫓台(跡)が書き込まれていますが、その所在地と推定される辺りには特にこれといったような標柱・解説板などは見当たりませんでした。
 また長重の嫡子光重の居城である二本松城を含め、白河小峰城並びに棚倉城などの丹羽氏所縁の城郭が、約250年後の戊辰戦争で全て落城炎上するとことになるとは築城者の丹羽長重も思いもよらない出来事だったのかもしれません。
凸8 城址公園のベンチ
 辺りはすでに夕やみに包まれた時刻に。一日中動き回って汗まみれとなった草臥れたオヤジ(⇒管理人のこと)が座るには余りにもそぐわない御影石製の高級ベンチ。加えてベンチの両脇にはこのようなインパクトのある可愛らしい装飾が施されておりました。
 なおこの場所にどっかりと座っているだけでも怪しい人物が、さらに三脚付一眼デジカメで腰を据えて撮影している姿に、少し離れたベンチに腰かけていた女子高校生2人組はそっと立ち上がり静かに遠ざかって行ったのでありました。

交通案内

・水郡線「いわきたなくら駅」から徒歩10分の亀ヶ城公園

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「ふくしまの城」(鈴木 啓 著/2002/歴史春秋出版)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「国別 城郭・陣屋事典」(2002/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)、

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「東白川郡誌」(福島県郡誌集成第5集/1970/福島県史料叢書刊行会)

史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国城主記、主図合結記


その他
福島県文化財データベース
棚倉町役場公式HP



・2008/07/21 HPアップ
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動