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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/16のブログ 白川城 河東田城 表郷堀之内館
所在地
 福島県東白川郡棚倉町棚倉
歴史、人物、伝承

佐竹義重、南奥攻略の拠点
 上台とも呼ばれる「赤館」(あかだて)の主郭上からは、北側の往還および南側の棚倉の町並みが俯瞰できる要衝の地。このため戦国期の後期には幾度となく白河結城氏・芦名氏と佐竹氏の双方により争奪の対象となった要害。江戸時代に編纂された地誌「白河古事考」によれば、応永年間に白川結城氏の一族が赤館氏を称したととされていますが、別に建武年間に伊賀国から下向した伊賀氏の子孫が赤館氏を称したとの異説もあり赤館氏の出自については余り明確とはいえないようです。
 天正3年(1575)には佐竹氏の攻略により南奥州侵攻の拠点となり、その後は仙道地域を南進してきた伊達氏と対峙。また後の関ヶ原合戦においては佐竹義宣が中立の立場をとり、上杉氏(西軍)と伊達氏(東軍)の形勢を観望した地でもあるとも伝わります。その後、慶長7年(1602)には、佐竹氏秋田移封(減封)に伴い廃城となったとも、あるいは慶長15年、関ヶ原の敗戦により一時は改易された立花宗茂が九州柳川へ戻るまでの間に1万5千石の小大名として棚倉に入封した際の居城とされたともいわれる大変由緒のある城館跡。寛永7年には(1625)丹羽長重が入封し、新たな地域支配の拠点棚倉城を築城するに至りその役割を終えました。
 このような歴史的経緯を経ていることと合わせて半世紀前の主郭部分の大規模な公園化などにより、残存する遺構が何時の時代のものであるのかは不明な部分も多いのかもしれません。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭ないし帯郭、切岸
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月16日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/19 )
 訪れたのは既に夕刻
 一年で最も日没の時刻が遅い時期とはいっても、訪城したのはすでに夕方の5時をとうに過ぎた時刻。これに加えて上空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうなどんよりとした曇り空に。休憩所の管理人さんも既に巡回を終えて帰り支度をしておいでになりました。また主郭の駐車場には2台の先客がいらっしゃいましたが、多分に城館めぐりとは全く無関係な様子。
 主郭に相当する部分は概ね公園化され城館跡という雰囲気に欠ける印象もあるように思われます。無論樹木の繁殖が旺盛なこととあわせて前記のような天候と時間帯であったため、中腹の各所に所在しているはずの空堀、腰郭などの確認はほぼ困難な状況。このあと棚倉城へも向かう予定であったことから滞在時間も限られ丹念に踏査するような暇もなく、下記の主郭の切岸、帯郭などのほかには明確な遺構を確認するには至りませんでした。かくしてまた季節を変えて再訪すべき候補地がさらにひとつ増加したような訪城となってしまったのでありました(恥)

画像クリックで拡大します
主郭と東側の切岸(高さ最大で約6mほど)
現地の解説板 現地の縄張図を拡大した画像
( 2008/06/16 主郭東側の腰郭ないし帯郭より撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大するはずです。
「赤館」の北側よりの遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭のナデシコ ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 赤館の遠望
 北側の国道289号線から撮影した画像。勿論戦国時代にこのような景観であったはずなどは御座いませぬ。
 麓を東西(画像では左右方向)に横断する国道118号線(通称石川街道)の建設により、巨大な現代の堀切が普請されておった次第でございまする。
 また、この国道289号線の走っている辺りが正面「赤館」の丘陵へと続く尾根筋であった模様であります。北側の稜線続きが地形上の弱点とされていることから400年の時を経て万全の要害として完成したと考えるべきでありましょうか。
凸2 主郭のナデシコ
 ナデシコ科ナデシコ属の多年草または一年草で、花期は4月から6月。別名を「ダイアンサス」(ギリシャ語で神聖な花を意味する)「セキチク」などとも言うそうです。水捌けと日当たりが良ければ、生育するとても頑健な草花。
 赤館の主郭の一角にはこうしたナデシコが群生(たぶん栽培されているもの)しておりました。本来は艶やかな印象のはずなのですが、些か花の盛りを過ぎてしまった感も否めないことから、今にも降り出しそうな天候と相俟って辺りにはどこか言いようのない寂寥感さえも漂ってまいったのであります。

「赤館」の標柱代りに撮影 ⇒ 画像クリックで主郭を改変して取り付けられた入口の道路にリンクします
南側の「棚倉の街並み」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 赤館城址
 主郭部分には絵になりそうな「赤館」の標柱が見当たらなかったこともあり、とりあえず駐車場の案内版で代用させていただくことに。この場所は主郭北側の腰郭状の地点に相当するようです。
 なお、古記録、近世地誌、後世の軍記などの記述に従いますと、「赤館」の表記の方が歴史に即しているようにも思えるのであります。
 
 ⇒北側の帯郭の様子
 ⇒同上
凸4 棚倉の街並み
 主郭南端部からは棚倉の街並みが手に取るように眺望できます。なお電線を撮影したつもりなどは毛頭なく...コツコツと画像の修整作業をするのも面倒なので...
 一方この遠景を撮影した主郭部分については、部分的に多少の傾斜が見られるものの概ね平坦な地形となっています。しかし1958年の公園化に伴い周回道路工事、建造物の設置などとともにかなり地形の改変が加えられている様子で即座には何処までが遺構に関連するものなのかという判断が難しく。
 やはり何れにしても10月下旬以降の再訪が必要性を感じる次第でありました。
交通案内

・国道289号線と118号線が交差する丁字路南側の丘陵で比高差は約50mから70mほど。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)、「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)、「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)、「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)、「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)、「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「東白川郡誌」(福島県郡誌集成第5集/1970/福島県史料叢書刊行会)

史料
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

その他
福島県文化財データベース
棚倉町役場公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


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