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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ 
所在地
 福島県白河市表郷河東田字天王山
歴史、人物、伝承

白河結城氏の一族河東田氏の居城
 資料などによれば、結城(白河)氏の一族、結城重継が河東田地方を領有して城館を築いたとされています。天正3年(1575)当主河東田上総守清重の時、常陸の佐竹義重による赤館への侵攻が起きますが、その翌年には赤館の奪回のための結城(白河)氏の前線となり一時は佐竹氏を駆逐することに成功。しかし天正7年再び佐竹氏の侵攻を受け白河結城氏は佐竹氏、伊達氏などに併呑され次第に没落します。なお、河東田上総守清重は天正18年の豊臣秀吉の奥州仕置きにより、本家の結城義親とともに伊達氏の家臣となり河東田城は廃城となったとされています。
 城館跡は現在の河東田地区の集落の中心部に位置する、南側を走る県道との比高差約15m、標高337.5mの小規模な独立丘陵に所在しています。傾斜のきつい北側、西側と比較しますと、残りの二方は余りにも地形が緩慢のため縄張り図にも腰郭や段築状の切岸を普請していたことが記されています。現状は南側を中心として耕作地化されていることから、その切岸の高さも1m程度を確認する程度にとどまります。
 これに対して主郭北側には明瞭な切岸、南西側には一部とはいえ二重土塁の遺構も確認できます。別名を天王館(てんのうたて)、天王寺館(てんのうじだて)とも

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、切岸、空堀、土塁
文化財指定
 白河市指定史跡 1980年3月14日指定
訪城年月日
 2008年6月16日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/12 )
 寄り道の成果
 遺構の読み方は「かとうだじょう」で、別名を天王館(てんのうたて)、天王寺館(てんのうじだて)とも。関東地方ならば大方は「やかた」と読めば無難なのですが、東北ではこの「館」(たて/だて)の読み方の区別ががなかなか難しく、資料により読み方が異なっている場合もあったりしますので未だに困惑しております。
 この城館跡に立ち寄ったのは、白河市内から棚倉方面へのルートに位置することと、白河市の史跡として市のHPに掲載されていたという事情等によるもので、遠征の前日に急遽予定に組み入れ少しばかり寄り道をすることとしたものです。
 さて実際に訪れてみますと白河市指定史跡ということもあり、麓付近には「白河結城氏の一族である河東田氏が居城とした....」という旨の解説版なども設置されている実に由緒正しい城館跡でありました。城館跡はおおむね白旗神社境内地となっていることから、6月中旬という時期にもかかわらず2、3回蜘蛛の巣が顔に張り付いたという程度。このためデジカメでの撮影作業はべつとして、肉眼での地表の観察についてはそれほど大きな支障はありませんでした。
 しかし今回は生憎と縄張図が準備できなかったために、あくまでも大雑把な見学に終始することに。それでも、どうにか主郭北側の切岸をはじめとして神社参道西側の二重土塁(構堀)などの要所となる遺構を確認することに成功。記念すべき福島の第1日目となるこの日に訪れた城館跡の中では、最も意外性に溢れた訪城となったのでありました。


「河東田城」の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
河東田城遠望
( 2008/06/16 西側約200mの地点より撮影 )
訪城アルバム
「案内標識」
「白旗神社の鳥居」 ⇒ 画像クリックで「大手口と思われる石段の画像」へリンクします
凸1 現地案内板
 県道277号線沿いに設置されている城館跡へと誘う案内版。これだけ分かりやすく立派な案内版が所在しているとは全く思いもよらず、見知らぬ土地故に白河市の担当課に感謝を。
 なお、後ろ側の建物は川東田地区消防分団の車庫。城跡への登り口はその少し奥にある地区集会所の向かい側の「凸2白旗神社参道」(右側の画像)となります。
凸2 白旗神社の鳥居
 「村社」あるいは「郷社」の何れかと思われる白旗神社参道の鳥居と石碑。
 白旗神社参道の左手には、天正3年南奥州しに侵攻した佐竹義重とこれに対する白河結城氏の攻防(「赤館の戦い」)、などについて親切に要約された現地解説板が設置されておりました。日頃はこうした解説板とは殆ど縁のない城館跡を訪れることが多く、重ねて白河市に感謝。

「大手口(推定)方面の腰郭と切岸部分」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「主郭南西部の構堀(空堀)」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 大手口(推定)方面の腰郭と土塁
 この撮影の折には切岸あるいは腰郭であるとの確証に欠ける状況でしたが、後日縄張図等を入手して照合したところでは、ほぼ間違いなく城郭遺構の一部なのでありました(嬉)
 ⇒石段の上部から90度折れて北側の主郭へと向かう神社の参道と西側の切岸
 ⇒白旗神社社殿が所在する主郭は、広さは東西約40m、南北約50mほどのやや不整形な方形です。この面積から想定される主郭の収容兵力は約200人ほどと思われます。
凸4 主郭南西部の構堀(空堀)
 切岸、腰郭跡などはともかくとして、まさかこのような構堀(空堀)遺構を目にすることができるとは思いもよらず。
全く人気のない森閑とした境内にて不明の至りを痛感するとともに、ふつふつと湧きあがる静かな感動を覚えたのであります...♪♪深さは左の主郭側で1.5m、右側の切岸側で1m弱、長さ約30m、堀幅は上面で3間ほどの規模でした(空堀を挟んだ二重土塁の構造)
 直接登攀することが困難な傾斜のきつい丘陵西側部分に残されています。このことから本来は主郭の周囲を巡っていた可能性も考えられますが、この地表の状況から確認作業はここまでなのでありました。

「主郭北側の切岸」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「主郭の城址碑」 ⇒ かなり読みづらいですが、一応画像クリックで拡大します(苦笑)
凸5 主郭北側の切岸
 搦め手といわれる主郭北側を中心として、およそ高さ3mほどの切岸の跡が明確に確認できますが、切岸のラインに見とれる余り二度ばかり管理人の顔面が蜘蛛の巣と仲良しになったのでありまする。
 これが11月上旬頃であれば、より詳細な遺構の確認ができるものと思われます。主郭部分は白河市指定史跡で河東田行政地区(多分地方自治法上の財産区かも)の所有ということのようですので、一般の民有地よりは訪れやすいものと思われました。
凸6 主郭の城址碑
 「川東田城址(碑)」と刻まれた主郭西側に所在する石碑で、昭和15年12月(皇紀二千六百年⇒西暦1940年)に紀元二千六百年に際して地元の皆様方のご尽力により建立されたものと記されておりました。
 内容は、「藤原鎌足の遠孫秀郷東国を領し...」と、白河結城氏の起こりに始まり一族河東田氏の事跡について美文調により詳述されておりました。肉眼ではある程度判読できますが、デジカメではこのような仕儀と相成りました。
交通案内

・表郷河東田の白旗神社が所在する独立丘陵で比高差約15m

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)

史料
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

白河市役所公式HP


・2008/07/12 HP暫定アップ
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