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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/16のブログ 河東田城 表郷堀之内館
所在地
 福島県白河市搦目美濃輪
歴史、人物、伝承

白川結城氏の古城
 北方を阿武隈川、南方を支流の藤野川に挟まれた標高300mから400mの北部山稜に築かれた最大比高差約60mほどの山城。戦国時代初期の南奥州に覇を唱え一時代を築いた白河結城氏の本拠地であり、別名を「搦目城」、「搦目山城」などとも呼ばれています。
 源頼朝の奥州平定に功績のあったとされる結城朝光は白河庄地頭となり、正応2年(1289)その孫祐広の代に本領の下総より下向。またその後「太平記」などによれば、嫡子宗広は義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、奥州南朝方として北畠顕家とともに活躍したことが記されています。
 この白川城の築城年代については余り明確ではありませんが、一般的には概ね南北朝期と推定されている模様です。15世紀後半には南奥州に大きな勢力を誇った白川結城氏ですが、16世紀の初めの永正年間頃には同族の小峰氏との主導権争い(「永正の乱」と呼称される)などのため、後に丹羽長重により近世城郭として大改修される北方の「白河小峰城」にその本拠地を移転したものと考えられています。ただし、その際に完全に城郭としての役割を終え廃城となったのかという点については必ずしも明確とされている訳ではなさそうです。

確認可能な遺構
 主郭、小口、腰郭、堀切、土塁ほか
文化財指定
 1953年10月1日指定 福島県指定史跡 
訪城年月日
 2008年6月16日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/14 )
 主郭のみの見学
 事前の情報不足のため車で主郭の近くまでいけることを知らず、最早やおよそ健脚とはとても形容しがたい誠におぼつかない足取りにて林道の分岐手前からアプローチ。このためこの日のその後の行動予定に齟齬をきたすタイムロスが止まることなく累積する始末。
 手持ちの数少ない資料によれば、この主郭の東西南北方面にも郭、土塁、空堀、堀切などの多くの遺構が存在しているとの情報。けれども東北南部とはいえ草木の成長が著しいこの6月中旬のこの時期のこと。残念ながら地表の観察が可能と言えそうなのは、当初の予想通り比較的整備良好な主郭部分周辺に限定されておりました。また縄張り図等も持ち合わせず、低山とはいえ徒に山中を彷徨するのも余り常識的とは言えないのであります。
 然るべく何れ折を見て再訪することとして( ⇒ 本当にできるのか!)、結局在城時間の大半は主郭上の野草観察とその生態の記録に勤しむことに費やされ、従って城跡を見学できたのはほんのごく一部という本末転倒した状況と相成りました。
 遺構に関しては横矢がかかる坂小口のような個所に残存する土塁の断片と削平された主郭および主郭切岸、並びに南側尾根筋とを分ける堀切状地形を確認したのみ。尤も、その全てを確認しようとすれば東西約900m、南北400m、標高400m前後の広範な尾根筋を行きつ戻りつ右往左往することは必至。その所要時間はどれほど効率的に回ったと仮定しても、最低4時間以上はかかりそうな印象が拭えないのでありました。
 さて後日資料整理していたところ、まことに本質とはかけ離れた素朴な疑問に直面。白河市の公式HPでは城跡の史跡指定面積を約200万平方メートルとの記載が。仮に単純な図形に置き換えるとすると、2km×1km四方の長方形ということに。しかし縄張り図、国土地理院の電子地図その他からは主郭南西部の山稜を含めたとしても東西方向、南北方向共に約1kmの範囲に収まる規模。さらに実際には城域自体は不整形であることから、およそ60万平方メートルの領域と推定。福島県の文化財データベースの略図でも同様の範囲を提示。尤も仮に「合戦坂」(ごうせんざか)、「南湖」(なんこ)方面までを含むというのであれば、確かに200万平方メートルという面積に匹敵するのでありますが。

「白川城主郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
白川城主郭
( 2008/06/16 南側より撮影 )
訪城アルバム

画像クリックでおおむね拡大するはずです
「八竜神方面の尾根筋」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「白川城への入口を示す石碑」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 八竜神方面の尾根筋
 白川城の遠景を撮影しようとしたのですが、生憎その全景を捉えることができるような地点が見つからず、一応城域の一部に含まれる尾根筋を撮影したものです。阿武隈川支流の谷津田川に面した北側(画像の左側)は、おおむねこのような急峻な地形を呈しているため、容易く攻上るようなことは困難であったものと推定されます。。
 なお、主郭部分はこの尾根筋の南東約400mの地点となるはずなのです。
凸2 白川城へ向かう峠道入口の石碑
 こういった目印となる石碑の存在は、初めて訪れる者にとってはまさに救いの神なのであります。というのも、白河小峰城からこの場所に移動する間の約10分間ほどは、完全な迷子(正しくは迷い人)となっていたのでありました。
 「南湖公園」へと向かう県道232号線八竜神橋南側の道路沿いに設置されておりました。

「主郭南東部の堀切状地形」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「主郭北側小口付近」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 堀切状地形
 左側の主郭部分と南側の細長い尾根筋を断ち切る様に見える堀切状の地形ですが、草木の生育状況と相俟って自然地形と人工地形の見極めが難しいように思えたのであります。
凸4 主郭の推定小口部分
 主郭北側に所在し小口状地形を形成していますが永正年間頃まで存続していたとすれば、こうした土塁が広大な主郭総体に普請されていてもよさそうにも思われました。しかし、この主郭上に現存する土塁状の遺構については、この個所以外には全く見当たりませんでした。

「主郭小口へと続く通路」⇒ 画像クリックで拡大します
「北側小口土塁から眺めた主郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭北側の小口へと向かう通路
 画像右手の土塁(切岸)上からは横矢が仕掛けられる構造となっており、この西側から北側へと回り込むルートが大手筋と考えられているようです。
 余談ながら、この下の方の道には地元ナンバーの四輪駆動車が半ば放置気味に駐車中。小口へのルートを踏査するついでに、念のため車内を覗いてみた限りでは特に事件性はなさそうでしたが...
凸6 小口土塁より主郭南方を俯瞰
 主郭の規模は東西方向約75m、南北方向約80mとかなり広大な印象があります。
 野球やサッカーは無理でも、ソフトボール程度ならば十分に試合ができそうなほどに平坦に削平された広大な主郭跡なのでありました。

「主郭で花の盛りを迎えていたニガナ」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「主郭北側の藤沢山付近」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭の野草
 山地に生育するキク科ニガナ属の多年草。この6月はまさに花の盛りで、白川城主郭の日当たり良好な場所に大量に群生しておりました。別名をウマゴヤシとも呼ばれ、食用にもなるとともに胃薬の代用としても使用されるとのことです。
 このほか広大な主郭跡には、ノアザミ、アヤメなどの野草が咲き誇り、このため城館跡よりも山野草撮影作業の方に力点が移っていってしまったのでありました。
凸8 通称「藤沢山」付近
 主郭の北北西150m付近に所在し、削平された郭や腰郭などが残されているとのことですが、この樹木の生育状況を目の当たりにして、アプローチするための情報はもとより、気力・体力ともに欠乏しておりました。
 後から調べた情報では左側の岩場付近に石段のようなものがあるということらしいのですが、そこまでたどり着くべき道も見えず...なお、この手前の平坦地は藤沢という字名で、白川結城氏の家臣団が居住したものと推定され、あわせて大手方面に相当するという捉え方もあるようです。

画像クリックで拡大します
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凸9 主郭北東部の絶壁
 東側の谷沿いには「搦目ケ入石切場」という地名もあるようなので、手前の平坦地も如何にも採石に伴うもののようにも思え、石材採掘に伴う人工的なものか自然のものか判断に迷ったのでありました。
 念のための北側の岩壁の拡大画像です。
凸10 推定主郭方面
 画像は藤沢の集落が所在する丘陵の平坦地から撮影したものです。
 標高403mの主郭が、この尾根筋の奥の方に所在するはずなのですが、地形的にはどうも手前の尾根筋の陰に隠れているように思えます。
交通案内

・白河市街の南東に所在する標高約400m、麓との最大比高差約60mの山城

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)

史料
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされている。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

「太平記」(1977/新潮日本古典集成)、「完訳太平記」(2007/勉誠出版)

その他
福島県文化財データベース
白河市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2008/07/16 HP暫定アップ
・2008/07/18 記述訂正、参考資料追加
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