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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/16のブログ 白川城(搦目城) 河東田城 棚倉城
所在地
 福島県白河市郭内
歴史、人物、伝承

白河結城氏の本拠
 鎌倉時代から白河地方を支配し、3代目の親朝が興国元年(1340)に小峰城を築城したものとされています。その後文明年間には一時南奥に覇を唱えた白川結城氏(白川氏とも)も戦国時代に入り同族の小峰氏との永正、天正の2度にわたる内紛等により次第に勢力を漸減していった模様です。ただし白川氏と小峰氏の関係は極めて複雑で2度の内紛に関しても諸説があるようです。
 戦国時代末期には隣国佐竹氏等の侵攻受けて敗北し、家名は残されたものの佐竹氏からの養子を受入れ、さらに天正18年には豊臣秀吉の奥州仕置きにより所領を没収され事実上滅亡します。
 現在残されている本丸遺構は寛永4年(1627)に棚倉から入封した丹羽長重の代に築城されたもので阿武隈川の流路変更を伴う、大規模な河川改修を実施して城下町を整備に力を入れました。その後丹羽氏は二本松へと移封され藩主は目まぐるしく交替し、幕末の戊辰戦争当時は二本松藩の預かりとされていましたが、新政府軍との攻防の中で炎上・落城しました。別名を「小峰城」、「白河城」とも。

確認可能な遺構
 本丸石垣、水堀、櫓台、枡形、門跡、二の丸、復元建造物として三重櫓、前御門など
文化財指定
 1961年3月7日 白河市指定史跡
訪城年月日
 2008年6月16日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/25 )
 ズルズルと時間を浪費
 二の丸の駐車場で東北道での腹痛に続いていきなり本日二度目のトラブル発生。 持参したデジカメのオートフォーカスの動作異常。 レンズ故障のため別のレンズに換えたことによるものか。 しかし事前に機能チェックだけは一通り実施したつもり。車に戻りマニュアルを確認して事無きを得たものの結果的に約15分ほどのタイムロス。現在使用中の一眼は簡単操作を売りにしていたことによるものか、ASA、WB、フォーカス・モード、焦点選択という4種類の撮影設定が電源ON状態時に少し触れただけで設定が変わるという弊害も。仕事用の上位機種ではそのようなこともなく、せめてSETボタンを押してから設定変更されるなどの改善が求められる...などと半ば八つ当たり気味に福島遠征の第一歩を踏み出すことに。
 さて気を取り直し、まずは目玉商品のひとつである復興された三重櫓と城門を撮影するポイントを探すべく広場(たぶん二の丸)へと赴くことに。 ところが恰も我も我もと城攻めに群がる軍兵のごとく、折しも保育園(幼稚園かも)の団体がゾロゾロとあちこちに散開中。 すなわちお弁当を入れたザックや色とりどりのシートなどの荷物が芝生の上一面に展開しまさに百花繚乱。加えて併設されているバラ園を含めた見学者・観光客も少なくなく。
  さらに大坂城に比べれば目立たないものの観光ボランティアと思しき方々が、本丸入口となる清水門にて城番の如く忠実に職務を全うすべく立哨中にて。郷土の歴史遺産を愛されるお気持ちは誠に尊いものと存じます。されど誠に恐縮ではございますが、できますることならばもう少しばかり端の方にて待機していただけないものかとも思う次第なのでありました。
  おまけに三脚付デジカメで撮影しているのが珍しいのか、件の園児ら数名に包囲され暫し子どもたちとのお相手などもする羽目に。交わされる会話には 南奥とはいえ5歳児にして既に実に味わい深い心温まるイントネーション(方言)も。このような次第でお弁当と食後のお遊びの時間が経過し、何とか三重櫓付近を撮影できる状態になるまでに、ずるずると都合30分ほどの時間が経過していったのであります。しかしその後も一般の見学者の方々がひっきりなしにおいでになり、あらためて著名な近世城郭での撮影の難しさを痛感。

「復元三重櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
清水門跡(画像左端)と復元三重櫓
(よくみると石垣上に2名の人影が...)

 このため人出が少なくなるのを期待しつつ、この際殆ど人影の無い東側の石垣部分からじっくりと見学を開始することに決定。 この個所は大きな樹木も無く石垣の高低差、張り出し方などの様子もよく観察でき思わぬ収穫ににんまりと。 また石垣の西側には空堀跡と思われる幅の広い窪みを有する地形も確認。 さらに水を湛えた南側堀の印象も、また石垣上から俯瞰した景観も予想以上の佳景なのでありました。
 無論古図を基にして復元された有名な木造三重櫓も角度を変えながら心ゆくまで撮影... とはいえ、このあとの予定に鑑みて余り多くの時間を費やす訳にもまいらず多少の心残りも。最後の締めくくりに 主郭ではなかった...え〜と...本丸の石垣上を反時計回りに大まかにぐるっと一周を。

「本丸東側石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
白河小峰城の本丸東側石垣
( 2008/06/16 撮影 使用レンズは18-250mmの広角側 )

訪城アルバム
⇒ 基本的に画像クリックで拡大します
「アカツメクサ」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「本丸東側の高石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 アカツメクサ
 マメ科の欧州原産の外来植物で、別名をムラサキツメクサとも。
 福島での最初の画像がこの阿武隈川の土手に咲いていた由緒正しきごく普通のアカツメクサの画像なのでありました。ツメクサというと「アライグマのラスカル」。この時から3日の間、突然頭の中でフジテレビのアニメの主題歌「♪♪シロツメクサの花が咲いたら...♪」がリフレインし始めたのでありました。
 ⇒ 阿武隈川河畔より城跡北辺部を眺望
 なお、3日目の最終日には、日没間近の二本松城にて正にその「シロツメクサ」を撮影しておりました(笑)
凸2 本丸東側の石垣
 本丸東側の石垣方面には訪れる人も少なく、しばしの間石垣に手を触れて対話をするという、一般にはどちらかといえば誠に怪しげ且つ瞑想的な行動をとることが叶いました。
 なお、戦国期までの小峰城は右手の丘陵が主郭でこの空堀の部分に堀切が施されていたものと推定されています。
 ⇒南方より撮影した本丸東側石垣
 ⇒土塁造の城郭では見ることのできない石垣の直線
 ⇒東側石垣の細部(「切込はぎ」を含む複数の工法)
 ⇒表は石垣(左)、内部は土塁(右)

「本丸南側水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「東側石垣上から本丸南側水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 本丸南水堀と石垣
 本丸東側石垣上より撮影したもので、古図などを見る限りでもけっしてこの部分はさほど堀幅は広くはなさそうで、本丸大手側の堀としては高石垣があるにしても幾分小さめな印象が。(「主図合結記」では9間から10間という堀幅を記載)画像中央部は本丸の清水門へと通じる土橋。

 ⇒西側の清水門側から眺めた南側の水堀と石垣
 ⇒どうしても艦艇の舳先を思い浮ぶ南側石垣の形状
凸4 左同
 左の撮影ポイントよりも、さらに右側(北側)に移動し撮影したもの。復元された建造物も確かに魅力の一つではありますが、石垣独特の重量感と勾配曲線の幾何学的な造形美の魅力を堪能できたことは、誠に貴重な体験なのでありました。
 またもしも仮に当時からこの堀幅であるとすれば、明らかに弱点の一つであるようにも思われます。とはいえ、このアングルは自分としては大変気に入っておりまする。

「復元三重櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「本丸御殿跡」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 復元三重櫓と前御門
 城郭関連本にもよく掲載されているお馴染みのアングルですが画像右下の漆喰塀の延長が短いのが些か残念な印象です。この結果このような構図と相成りました。
 三重櫓は平成3年(1991)、前御門は平成6年(1994)に、白河市のHPでも紹介されている古図面に基づき忠実に復元されたとのことです。

 ⇒竹の丸と呼ばれる一角より撮影
 ⇒前御門付近から撮影
 ⇒三重櫓と前御門および多聞櫓跡
凸6 本丸御殿跡
 前御門を潜りぬけると、本丸御殿跡は文字通り御殿跡で、慰霊碑などの石造物以外には何もない石垣に囲まれた平坦な広場に到着。
 内部はほとんどが土塁構造のため、試しに小走りに登ってみようかとも思いましたが、無論土塁遺構の保全と右足の故障に配慮し自重を。
 ⇒本丸御殿側から撮影した三重櫓と前御門
 ⇒同上
 ⇒多聞櫓跡
 ⇒本丸北西側隅の石垣上(雪見櫓付近)

「復元三重櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「桜門より復元三重櫓」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 二の丸石碑と三重櫓
 掛川城などと共に、本格木造建築による復元の先駆けとなったと評されているようです。なお、この撮影ポイントはなかなか人通りが途絶えず、待つこと約10分でようやく撮影に成功を。
 ⇒現地解説板
 ⇒城域の推定復元図
凸8 桜門枡形付近より
 よくよく考えれば戊辰戦争以前は三重櫓の手前側に本丸御殿などの建物が所在していたはずなので、このようなアングルは史実ではあり得ないのではないかとも思われるのでありました。

 ⇒桜門付近から眺めた三重櫓

「桜門枡形と本丸石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「南西の水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 桜門付近の石段と石垣
 右手の帯郭から本丸中心部へと通じる桜門周辺の構造の詳細。帯郭から本丸内部へと通じるルートは基本的に表御門とこの桜門のみ。
 ⇒本丸高石垣の半円模様
 ⇒桜門枡形付近
 ⇒同上
 ⇒桜門枡形より本丸へと通じる石段
 ⇒桜門の枡形跡
凸10 本丸南西部
 本丸南西隅に相当し、阿武隈川の分流を利用したものとされているようです。このため「3」「4」の幾分狭さを感じる南面東側の水堀と比べると遥かに堀幅も広く、近世の古図面などでも大きく描かれております。

 ⇒本丸南西水堀
 ⇒本丸南西隅の水堀

「北西の水堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「ムラサキツユクサ」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 本丸北西部
 本丸南側の水堀の規模と比較しますと、阿武隈川の流れを利用したとはいっても、その眼前には遥かに倍以上規模を有する雄大な景観が広がっておりました。
 外郭などの痕跡およびその他の史跡の見学等を含めて、この秋にでも再訪すべき城郭のひとつとなったのであります。
 ⇒手前の枯れ木のないすっきりとした画像
凸12 ムラサキツユクサ(西側水堀沿い)
 帰り際に西側からの遠景撮影のため堀跡沿いの堤へと赴いたものの、やはり時節柄余りに樹木が繁りすぎていて西側石垣のラインを確認するにはほど遠い状態。
 また水堀土手では紫露草が接写してくれと言わんばかりに咲き誇り、再び貴重な時間の浪費をしてしまう管理人なのでありました(苦笑)
交通案内

・JR東北本線白河駅より徒歩2分

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「ふくしまの城」(鈴木 啓 著/2002/歴史春秋出版)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「定本日本城郭事典」(西ヶ谷 恭弘 編/2000/秋田書店)
「国別 城郭陣屋事典」(2002/西ヶ谷 恭弘 編/東京堂出版)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)、
「中世・戦国 江戸の城」(2004/新人物往来社)
「新・日本名城図鑑」(2001/新人物往来社)
「城郭みどころ事典 東国編」(2003/東京堂出版)
「江戸三百藩 城と陣屋総覧 東国編」(2006/学研)
「精選 日本の名城」(2006/新人物往来社)
「日本100名城 公式ガイドブック」(2007/学研)


郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀にかけての南奥の政治的支配動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している数少ない論考集。
「動乱の中の白川結城氏」(2004/伊藤喜良 著/歴史春秋社)
 ⇒南北朝期の白川結城氏の動向に詳しい。

史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本

「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。佐竹氏による白川結城氏領内への侵攻過程が冒頭に記されている。

その他
白河市役所公式HP
福島県文化財データベース


・2008/07/24 暫定HPアップ
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