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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ 星ヶ城(御代田城) 須賀川城 下宿御所
所在地
 福島県郡山市田村町守山字三の丸
歴史、人物、伝承

南朝田村荘司の本拠地とも
 古代からこの地の有力豪族として栄えた田村荘司一族の本拠として築かれましたが、応永3年(1396)の守山城の合戦で関東公方側に敗北し奥州南朝方の最後の拠点であった田村荘司一族は没落しました。
 その後戦国時代に入り三春田村氏の重要な支城として再興され、「奥仙道表鑑」によれば天正10(1582)年7月には二階堂氏の侵攻をこの守山城の攻防で防いだことが記されています。
 また、近世初期には会津の地に入封した蒲生氏により、天正19年(1591)から慶長14年(1609)の間に二の丸下の大規模な野面積の石垣遺構が築かれたものと推定されています。(「現地解説板」等より)

確認可能な遺構
 二の郭の石垣と空堀、本丸土塁など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/01 )
 蒲生氏時代の石垣遺構
 城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東端の小高い丘陵に所在しています。 近年において近世初期蒲生氏時代の大規模な野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡でとして有名で、主郭(本丸)と推定される通称城山八幡にも郭と明確な土塁が残存しています。
 二の郭(二の丸)石垣の高さは5m前後で南西側から南側へと回り込んでいる様子も確認できます。 また、主郭北西隅には櫓台跡のような高まりも明確に残されておりました。 三の郭と推定されている城跡の西側部分に関しては守山小学校の校庭および民家の宅地が広がりその現状からは城域の範囲が掴みにくくなっておりました。
 なお時間が許せば周辺をじっくりと歩きながら観察したいところではありましたが、この時点で既に3か所もの感動的な遺構と対峙することが叶い本日の目標はおおむね達成されたも同然。残り時間の制約と下見がてらの数稼ぎのため、何れ近いうちに再訪することを深く心に刻んで次の目的地へと移動していったのでありました。

「二の丸の石垣と堀跡」 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の丸南西部の石垣と空堀
( 2008/06/17 撮影 )
訪城アルバム
基本的に画像クリックで拡大するはずです
「城山八幡神社」 ⇒ 画像クリックで現地解説板へ
「苔むした南側石垣」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 本丸のある城山八幡神社
 鳥居の後ろ側が本丸の所在する城山八幡神社の境内地。なお画像クリックで平成17年に設置された郡山市の現地解説板の画像にリンクします。

 ⇒土橋付近から撮影した二の丸石垣
 ⇒北側の空堀から撮影した二の丸石垣
 ⇒三の丸とされる守山小学校と埋め立てられた空堀跡

凸2 二の丸南東側石垣
 野面積の苔むした石垣の風合いが400年の歴史を感じさせてくれますが、苔の生え具合から見て近年の本格的発掘調査以前から、冬季などにはある程度は石垣遺構として確認されていたのではないかとも思われる状況でした。
 同じ部分の少し西寄りの石垣ですが、コーナー部分での算木積などは確認できず、緩やかなカーブを描いて南側へと回り込んでいるような印象です。

「二の丸空堀南端部」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「二の丸空堀の土橋状地形」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 二の丸空堀の先端部
 「凸4」の土橋部分よりさらに南東側に続く細長く伸びた地形で、画像左側は40度ほどの傾斜を伴う切岸となり約15m下の水田へと続いています。
凸4 空堀南端の土橋部分
 画像手前の暗い部分が土橋状の地形で、画像左側の三の丸と画像右側の石垣を伴う二の丸の通路と考えられているようです。
 ⇒鏡石が含まれる石垣の拡大画像


「本丸の北側土塁」 ⇒ 画像クリックで土塁上からの画像へリンクします
「本丸と二の丸」 ⇒ 画像クリックで二の丸の拡大画像へリンクします
凸5 本丸東側の低土塁
 50m四方ほどの不整形な本丸周囲には低土塁が概ね万遍なく巡っていることを確認できます。この社殿の後ろ側の東側部分の土塁部分が最も規模が大きく高さは最大で0.8mほど。
 また本丸の東側は、比高差は15m足らずですが登攀困難なほどの断崖が形成されています。

 ⇒本丸の城山八幡神社から西側を俯瞰
凸6 二の丸
 縄張り図などを照合しますと、奥の林の中の小高い部分が本丸で、手前の畑が二の丸に相当するようです。
 なお、画像をクリックすると二の丸の全景(現状は畑)にリンクし、偶然南北朝期の山城である国史跡の宇津峰(守山城から南東の方角に所在する目立つ山稜なのでたぶん間違いないものと思われます)の遠景が写り込んでいます。この遠景画像だけで「宇津峰」としてUPするのは流石に気が引け....
交通案内

・郡山市立守山小学校敷地が3の丸で、東側の城山八幡神社が本丸。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
、「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「ふくしまの城」(鈴木 啓 著/2002/歴史春秋出版)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)、

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「三春町史(1.2.7巻)」
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)

史料
「奥陽仙道表鑑」(「三春町史(第7巻に所収)」)。
⇒二本松藩士木代定右衛門建達(号は竹禎)により編纂された軍記で「仙道表鑑」とも。蘆名、伊達、田村、白河結城、二階堂各氏の戦乱実記で戦国期の群雄割拠の様子を記録した資料的価値の高い軍記とされる。田村氏に関しては別に「田村兵軍記」があるがこの奥陽仙道表鑑を基にしていると考えられている。

その他
福島県文化財データベース
郡山市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2008/08/01 HP暫定アップ
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