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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ 越久館 下宿御所館 
所在地
 福島県須賀川市諏訪町(主郭)、本町、中町、宮先町、上北町、加治町、諏訪町など
歴史、人物、伝承

鎌倉以来の名族、戦国大名二階堂氏の本拠地
 鎌倉時代末期に初代行政7代の孫二階堂行朝(入道行珍)が鎌倉より下向し一時は南朝方として活躍。その後北朝方に変わり12代行続の頃須賀川城を築城したとされます(「系図纂要」「仙道表鏡」)。15世紀の半ばにの13代為次の代には鎌倉からこの須賀川城に本拠を移し城と城下を整備拡張し、その後は戦国大名として岩瀬郡を中心に徐々に勢力を拡大。
 しかし永禄9年(1566)二階堂盛義の代には、会津の雄芦名氏に服し嫡子盛隆を人質として差し出すこととなります。ところが結果的にはこの盛隆が芦名家を相続するところとなり、芦名家と一体となった二階堂家の家運は俄かに上昇して一時代を築きます。
 そうしたなか天正12年(1584)盛隆は家臣の大場三左衛門に殺害されるという凶事のため、盛義後室の大乗院(伊達政宗の実の叔母)が城主となり家老須田美濃守盛秀が城代を務め、佐竹氏等の勢力を背景に伊達家の勢力拡大に対抗することとなりますが、天正17年(1589)10月伊達政宗の須賀川城攻めの前に落城し、戦国大名二階堂氏は滅亡します。
 
 また、この須賀川城の落城により討ち死にを遂げた多くの人々の霊を弔うための行事が日本三大火祭の「松明あかし」(たいまつあかし)とのことで、毎年十数万人の観光客が訪れる400年以上にわたり続く伝統行事となっています。
 
 なお二階堂氏の出自は、藤原氏南家伊東氏流、武智麻呂(むちまろ)の子乙麻呂流工藤氏の分流とされる伊豆出身の豪族で行光の代からは鎌倉幕府政所執事を世襲し、室町幕府でも同職を世襲しましたがの忠行の代の長禄3年(1459)からは伊勢氏がその職を継いでいます。薩摩の島津家家臣の二階堂氏も遠い同族とのことのようです。

確認可能な遺構
 主郭跡(二階堂神社)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/06/17 )
 二階堂氏所縁の神社と城址碑のみ
 近世の絵図などから、須賀川市内の市役所北側400mほどの地点に所在する二階堂神社付近が主郭(本丸)跡と推定されている模様です。 現地にはかつての城跡であることを示す解説版・略図なども設置され、かつ社殿の建つ部分には高さ2mほどの段築が施されていました。この人工地形が城跡の残滓のようにも思えますが、社殿の建立に伴う普請によるものなのかどうかについては分かりません。
 これ以外の現状の地形としては、南側の市役所方面と比べ全体として比高差3mほどの微高地を形成していることがわかるという程度でありました。 また主郭部分から見て東側の方も緩い上り坂が形成され幾分微高地となっていることから、かつての郭跡(多分二の郭)の形跡を示しているにも思えるのでありますが詳細なことは不明です。何れにしても資料不足に加えて市街地のど真ん中に所在しているという現実と、当面はそれ以上の収穫は見込まれそうにもなく滞在時間も限られていることから次の目的地へと速やかに移動を。

主郭跡とされる二階堂神社 ⇒ 画像クリックで拡大します
本丸(主郭)跡の二階堂神社
( 2008/06/17 撮影 )
訪城アルバム
本丸(主郭)跡の二階堂神社 ⇒ 画像クリックで拡大します
本丸(主郭)跡の二階堂神社 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 二階堂神社
 細かい話題ですが、「日本城郭大系」に掲載されている写真では手前の鳥居左側には民家が所在していましたので奥の方で広くなる袋地のような境内地であった模様です。
 しかし現在では有名な「松明あかし」の伝統行事を挙行する関係するのかどうかは分かりませんが、このような小公園のようなスペースとなっていました。
 また現地には二階堂神社の縁起須賀川城の略図が記された分かりやすい説明板がそれぞれ設置されておりました。
凸2 二階堂神社社殿
 二階堂神社の社殿はこのように高さ2mほどの塚上に思いのほか控え目に鎮座しておりましたが、この場所があの盛大な火祭の採火式を執り行う場所とは俄かに信じられないような実にこじんまりとした境内でありました。社殿の棟の文様は「三つ盛亀甲に花菱」で、二階堂氏の家紋とされています。」
 なお参道東側の民家のブロック塀沿の日陰では、折柄ムラサキツユクサが花の盛りを迎えておりました。

二の丸といわれる弁財天 ⇒ 画像クリックで拡大します
翠ヶ丘公園方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 「二の丸」ともいわれる弁財天
 天台宗妙林寺境内に所在する弁財天は、鎌倉の二階堂から二階堂氏が須賀川に下向した際に奉持してきたと伝わっているようです。
 また、弁財天の縁起について記された説明板には「二の丸」(2の郭)の一部であることが見えます。
 しかし二階堂神社に設置されている現地略図(二階堂家旧臣の旧家に伝わるものをベースにしたもの)と照合する限りでは、些か位置が異なるようにも思われます。
 なお、須賀川市の解説版によれば、妙林寺寺宝の十一面観世音菩薩は初代須賀川城主の二階堂為氏公の兜に収められていたものと伝わっているとのことでした。この時はそうした事情に関係なく撮影したまでのことで、たまには現地近くの神社仏閣は可能な限り撮影するという基本方針が役立つこともあるようです。
凸4 翠ヶ丘公園方面
 白い高層ビルの向こう側が、「松明あかし」が挙行される翠ヶ丘公園、保土原館方面と思われますので、「松明あかし」を遠望するにはこの白い建物(ホテル ウイング・インターナショナル)に宿泊するのがベストかも知れません。
 尤もこの画像を撮影した時には、そのような赤い意味合いとは無関係に、朝食時間までの時間つぶしに何気なく朝方の須賀川市内を撮影したまでのことなのでありました(苦笑)
 宿泊したビジネスホテルから二階堂神社へと向かう国道118号線の歩道沿いには、ちょうどヤマボウシの白い花が満開のためデジカメのテストを兼ねて記念撮影。(白い花は光の反射が強く、敢えてASA100に設定し更に露出を下げて撮影しています)埼玉県南地域とは20日間ほど季節の進行が遅いようでした。
交通案内

・JR須賀川駅から南へ徒歩約20分の二階堂神社に城址碑が所在します。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「三春町史(1巻)」
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)

史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集) ⇒ 諸国廃城考を所収
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

須賀川市公式HP


・2008/07/05 HP暫定アップ
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