福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動

素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示願い ます。

福島県郡山市の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ 下宿御所館
所在地
 福島県郡山市田村町御代田字堀込、字中林付近
歴史、人物、伝承

戦国期田村氏南西部の拠点の一つ
 「会津旧事雑考」等によれば、天正天正9年に芦名氏、二階堂氏、岩城氏、佐竹氏等の連合軍により、田村氏(当主:田村清顕)支配下にあった御代田城(みよたじょう)が攻略されたとされています。また、越後の上杉景勝より芦名氏(推定)にあてた文書(覚書案の写)にもそうした事情を窺わせるものがあります。(「三春町史1」より)
 しかし、まず当該文書には「御代田」という具体的な文言ではなく、「田村口」(田村領への入口の意か)を攻略したとしか記されていないことと、また下記の3種類の軍記等での記述が相違を見せるように、より具体的な事実関係については不明な部分が多いものと推定されます。
 西に阿武隈川が北流する丘陵の先端部に所在し、別名を「御代田城」「星の城」「御代田舘」とも呼称されるようです。沼舘氏の下記の著書によれば「舘地は御代田東南(西南の誤りか)側の小高き丘の上にあって、方100米の平城で土居及濠の跡が見られる」との記述が示されています。しかし60年以上前の調査であるということもあり、現存する地形と直接結び付けるのは早計かもしれません。

確認可能な遺構
 削平地?切岸?土塁?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/07/28 )
 坂上田村麻呂築城との伝承
 坂上田村麻呂が築いた?と伝わり、戦国期には二階堂氏あるいは田村氏に関連する城館跡とされている模様。詰まる所、推定地に関する情報入手が全く不足しており、訪城時に携えていた資料は県別マップルとネットから印刷した郡山市田村地区の大変大まかな観光マップと電子国土の地形図のみという余りの杜撰さ。
 このためとりあえずは、御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵を含む一帯と推定することにして踏査を開始。といってもこの日のその後の予定に鑑みて、正味10分ほどの所要時間のため携帯した資料が示すごとくものすごく大雑把な見学と相成り、一応は社殿の北側を中心に切岸状地形が確認できたものの、無論城郭関連遺構とするような確信などは全く無いも同然なのでありますした。
 さてその後このHPを更新するにあたりその後入手した近世に編纂された史料・軍記などの諸資料を時間をかけて参照。また福島県の文化財データベースとも照合。この結果概ねこの神社を中心とした所在地で合致していることが確認。辛うじて大恥をかかずに済んだものの、誠に以てことの次第が逆なのでありました。

「星ヶ城(御代田城)」 ⇒ 画像クリックで拡大します
星ヶ城(御代田城)の遠望
( 2008/06/17 東側の水田地帯より撮影 )
訪城アルバム
凸1、2以外は画像クリックで拡大します
「星ヶ城」の北麓を東西に横断する水郡線
「菅布禰神社」の鳥居
凸1 城跡の北麓を横断する水郡線
 些か疑問の余地もありそうですが、福島県の文化財データベースでは、この東西方向に横断する水郡線の線路の右側方面の平地際まで城館遺構の範囲として提示されています。
 
凸2 菅布禰神社鳥居
 平地の居館跡としては、この神社の北方約300mの地点に御代田館が存在することから、平時と戦時に使い分けられていたことも考えられますが無論確証などはあろう筈もありません。


「菅布禰神社」の石段⇒ 画像クリックで拡大します
「菅布禰神社社殿」の存する境内の削平地 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 菅布禰神社参道の石段
 見方によっては腰郭のように見えなくもない参道中段の削平地。
 それほど比高差もなく、またさほど急峻な石段ではないので、後世の境内の整備に伴う造成とは考えにくい面もありますが基本的に準備不足、資料不足の感が。

凸4 社殿の削平地
 一応は切岸、堀切(画像の左側)のようにも見えてしまう地形が確認できます。
 然しその現状からは後世の神社の建立に伴う造成によるものか、城郭遺構に関連するものかを判別する材料を何も持ち合わせないという不首尾。


「菅布禰神社社殿」北側に残る切岸状の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
「菅布禰神社社殿」裏側の土塁のようにも見えなくもない地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 切岸?状地形
 因みに「福島県の文化財データベース」、「中世城館調査報告書」のいずれにも、遺構の存在は明示されてはおりません。下記の「奥陽仙道表鑑」の記述を見ると、正に「太平記」の記述を思い浮かべてしまうのでありました。

凸6 土塁跡?
 防備の要となる北辺に所在することから土塁跡といえば言えなくもない地形ですが、境内の整備に伴う残土のようなものである可能性も無くはないような中途半端な印象でありました。
 
交通案内

・御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵一帯で、万仭(ばんじん)の峯には程遠く北麓の水田面との比高差は約20mほど。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 御代田館と混同している可能性も
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
⇒ただし、城館名は「御代田舘」と記されている。
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社) ⇒ 田村氏の系譜等が略述

「三春町史(1.7巻)」
⇒ 田村氏の系譜と事跡については第1巻に詳述。
⇒ 資料編第7巻所収されている「奥陽仙道表鑑」(おくようせんどうおもてかがみ)「会津盛氏並びに二階堂盛義卒去」の  項中「付御代田城明け渡す事」に御代田城について次のように記されている。
 「去るほどに御代田の城をば星の城と号し往昔坂上田村麻呂東夷征伐の時築れたる地にて、城は万仭(ばんじん)の峯に等しく矢倉雲上に連なり名にし負うたる名城なれば...火鶏を飛して城をおびやかし金牛をかって路をひらくとも物の数にあらじと思うほどなるに、大剛一の御代田三河守を大将にて田村の加勢多く籠もりたることなれば...」
 しかしその後兵糧不足から落城寸前に陥り、田村氏が占拠していた今泉の城を明け渡すことと引き換えに城兵の助命を取り付け、最終的には御代田城は会津方の手に落ちて二階堂家の家臣と思われる須田備前守が入城した。なお、御代田氏は250石取りの武士として伊達氏の家臣となったことが「御代田家譜」(伊達世臣家譜)に記載されている。


史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 諸国廃城考には「奥陽仙道表鑑」とほぼ同様の内容で芦名氏による攻城の様子が略述されている。

「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。本城に関しては、「須賀川の為、今泉落城の事」の項には、後詰として田村月斎らが今泉城を救援に向かい会津勢に敗北。その後、別に二階堂家重臣須田美濃守の軍略により、この御代田城を攻略した旨が記されている。

その他
福島県文化財データベース
郡山市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2008/07/28 HPアップ
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動