凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)
■城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 御代田館と混同している可能性も
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
■郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
⇒ただし、城館名は「御代田舘」と記されている。
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社) ⇒ 田村氏の系譜等が略述
「三春町史(1.7巻)」
⇒ 田村氏の系譜と事跡については第1巻に詳述。
⇒ 資料編第7巻所収されている「奥陽仙道表鑑」(おくようせんどうおもてかがみ)「会津盛氏並びに二階堂盛義卒去」の 項中「付御代田城明け渡す事」に御代田城について次のように記されている。
「去るほどに御代田の城をば星の城と号し往昔坂上田村麻呂東夷征伐の時築れたる地にて、城は万仭(ばんじん)の峯に等しく矢倉雲上に連なり名にし負うたる名城なれば...火鶏を飛して城をおびやかし金牛をかって路をひらくとも物の数にあらじと思うほどなるに、大剛一の御代田三河守を大将にて田村の加勢多く籠もりたることなれば...」
しかしその後兵糧不足から落城寸前に陥り、田村氏が占拠していた今泉の城を明け渡すことと引き換えに城兵の助命を取り付け、最終的には御代田城は会津方の手に落ちて二階堂家の家臣と思われる須田備前守が入城した。なお、御代田氏は250石取りの武士として伊達氏の家臣となったことが「御代田家譜」(伊達世臣家譜)に記載されている。
■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
諸国廃城考には「奥陽仙道表鑑」とほぼ同様の内容で芦名氏による攻城の様子が略述されている。
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。本城に関しては、「須賀川の為、今泉落城の事」の項には、後詰として田村月斎らが今泉城を救援に向かい会津勢に敗北。その後、別に二階堂家重臣須田美濃守の軍略により、この御代田城を攻略した旨が記されている。
■その他
福島県文化財データベース
郡山市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
・2008/07/28 HPアップ
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