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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/18のブログ 三春城 御祭館 七草木館
所在地
 福島県二本松市小浜字上館
歴史、人物、伝承

大内氏との抗争
 伊達氏から離反して伊達政宗正室の実家である田村領に侵攻を繰り返す東安達郡を支配する大内定綱に対して、政宗は天正13年(1585)閏8月に田村清顕と共に大攻勢をかけて小手森城を攻略した。この攻城戦において籠城した非戦闘員をふくむ大内方に多くの犠牲が発生したことにより、大内定綱は本城の小浜城を放棄し縁戚にあたる名門二本松氏(畠山氏)を頼ったとされている。
 この際の大量虐殺の様子が政宗自身の最上氏などへの書状において散見されていることから、一般には政宗の命による所謂「なで切り」であったとする見解が有力視されているようである。しかし「奥羽永慶軍記」によれば、乱捕り(戦争奴隷)を拒むための自害であったともされている。
 あくまでも事の真相の次第については不明であるが、何れにしても非戦闘員を含む大量の犠牲者を生み、こうした緊迫した事態が大内氏諸城の自落と定綱本人の逃亡につながったであろうことは想像に難くないのであろう。なお当時においては本来捕虜は人的資源として捉えた場合、有用な労働力であり且つ潜在的戦力でもあるという事情も視野に入れる必要があると考えられる。そこでこうした結果を踏まえると、政宗の書状は多分に周辺諸大名に対する警告と挑発を意図した「政治宣伝」の要素のあることも考慮すべきではないだろうかとも思う。

偶発か、謀殺か
 さて天正13年10月軍事的に優勢な伊達・田村連合軍を前にした二本松城主畠山義継は、この当時には安達郡西部地方を支配するだけの勢力に減衰していたことから、結局は降伏の道を選ばざるを得なかった。そしてその講和の答礼のために僅かな家臣と共に宮森城に在城していた政宗の父である伊達輝宗の元へと赴くこととなった。しかし義継は厳しい講和条件を背景に疑心暗鬼となった上に些細な行き違いなどにより、身の危険を察知し見送りに出た輝宗を拘束して居城である二本松城へと帰投することを試みた。しかし、途中の小浜城に在城していた政宗の軍勢により阿武隈川東岸の粟ノ須で捕捉され、50名とも100名とも伝わる義継主従は輝宗共々弓鉄砲などにより射殺されたといわれている。
 この事件については政宗による陰謀説も指摘されているが、義継主従が少数で然も臨戦態勢ではなかったこと、帰路は小浜城を経由せざるを得ないことなどから、講和条件・緊張関係等を背景とした偶発的事件と捉えるのが妥当ではないかとも考えられる。そしてまた、この事件が同年11月の「人取橋の合戦」への伏線へと繋がっていったとも考えられる。
 別名を「四本松城」「宮守城」「小浜上館」「上館」などともいう。

確認可能な遺構
 郭、堀切、帯郭、礎石(関係資料より)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月18日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/31 )
 所在地の勘違い
 現地へと赴いたところ、事前に当りを付けておいた推定地はものの見事なまでの的外れに。 てっきり県道40号線の西側であると思い込んでおりましたが、実は反対側の県道東側なのでありました。 尤もよくよく周囲を見渡せば、現地の麓にはしっかりと案内板まで立てられ、小浜川に架かる小さな橋には「宮森城橋」とまで明記されていたのでありました(冷汗)
 さらに気を取り直してあらためて地形図を確認すれば、麓を北流する小浜川を天然の水堀とすることができるのは東側の丘陵しか無い訳で... しかし往還を扼するには比高差は同程度としても西側丘陵の方が20メートル近く標高も高いことも事実なので一概には捨てがたいものが...(悔)
 この時点で時刻は午後3時前でありました。然し今回はまだこのあとに小浜城と二本松城(市役所、資料館などでの資料集めの予定あり)を回るという計画があり、草木の繁殖状態と日没までの残り時間などを勘案し、所在地とアプローチの方法について確認すると共に麓の説明板をちらっと拝見しただけで素通りをいたしました。このため城跡らしい画像は皆無に等しく、麓から撮影するにしてももう少し東側からならば多少はそれらしくなると知ったのは大分後のことなのでありました。
 とはいえ中世城郭としては200年近い複雑な経緯を有することからも、今後三春城関係の支城群を再訪する際に時間をかけて踏査せねばとしっかりと心に刻んで...と、いってはみたものの訪城計画の都合上からどんなに早くても5年先かとも(苦笑)
 ※2019年6月現在に至っても再訪しておりません<(_ _)>

「宮森城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
宮森城
−電線は画像処理してあります−
( 2008/06/18 北西麓から撮影 )
訪城アルバム
本宮街道と三春街道の丁字路
現地の案内版
凸1 西側麓の交差点付近
 手前の県道40号線(三春街道)と県道118号線(本宮街道)が分岐する交通の要所であることから、地域支配の拠点城郭のひとつと位置づけられていたことが窺えます。「日本城郭大系」によれば、城跡西麓には上本町、下本町などの古地名が残るとのことで、かつての城下町の存在を示唆しています。また所在地は上館であり、城跡南側の字名にも中世城郭との関わりを示すと思われる「殿原」との地名が現存しています。
 なお、平成の大合併で旧岩代町は旧安達町、旧東和町とともに2005年12月二本松市へと改称され、このため合併後の二本松市内には何と150か所近くにものぼる中世城館が所在することとなってしまったのでありました。
凸2 北側麓の案内板
 この場所は当初から所在地を確認するだけの予定に過ぎず、これだけ分かりやすい案内版があるものとは全く思いもよらないことでした。しかし、残り時間もさることながらこの草木の生育状況では詳細な遺構の確認は困難と一方的に断定し、結局のところ滞在時間は僅かに5分間という慌ただしい訪城に。
 なお宮森城の範囲は南北方向で約600m以上にわたることから、少なくとも2時間ほどの調査時間を費やす必要がありそうにも思われました。
 これはこれとして楽しめた、小浜城に所在していたものよりも経年変化による劣化が少ない小浜城の復元(?)イメージ図
交通案内

・県道40号線と118号線交差点の東側丘陵で、比高差は約60mほど

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台 上巻」(2007/福島民報社)
「三春町史1通史編」(1982/三春町)
「三春町史7中世資料編」(1978/三春町)
「二本松市史 通史編(1巻)」(1999/二本松市)
「二本松市史 資料編(3巻)」(1981/二本松市)

史料
「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社)
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。

その他
福島県文化財データベース
二本松市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
「図説戦国合戦総覧」(1977/小和田哲男 著/新人物往来社)
「史伝 伊達政宗」(2000/小和田哲男 著/学研)−− 「伊達政宗 知られざる実像」(1986)を文庫化したもの
 

・2008/08/31 HP暫定アップ
・2019/06/04 画像ズレ補正等
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