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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/18のブログ
所在地
 福島県田村郡三春町大字御祭字小山、字樋ノ口
歴史、人物、伝承

小山氏の館とも
 「三春町史7巻資料編」に収録されている「古城絵図」等の記述によれば、城主(館主)は「小山左馬之助、周囲306間、高さ9間、本丸縦(南北方向)40間、横(東西方向)14間」と記されていまが、実際の規模についてはもう少し大きく南北約200m、東西最大80mほどの範囲に遺構が所在している模様です。
 なお、主郭には花崗岩の石列が所在しているとのことですが、三春町のHPに掲載されている「三春の歴史」の項によれば建物の一部として利用された可能性を示唆しています。
 しかし残念ながらこの小山氏については「田母神旧記」「田村家臣録」(片倉文書)「田村系譜」などの家臣団を記した史料などににその名を見ることはできません。然し同所の小字が小山であることから小山姓を名乗っていた村落規模の領主としての存在が窺われるのかも知れません。

確認可能な遺構
 下記の関係史料によれば郭、帯郭、腰郭、堀切などが所在する模様です。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月18日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/12 )
 村落領主規模の城館か
 たまたま小浜城へ向かう県道40号線沿いに所在するために立ち寄ったまでのことで、予備知識は僅かに三春町公式HPに掲載されていた情報のみという安易さでした。さてその情報によれば北方の大内氏に対する三春城主田村氏最後の防衛拠点と記されておりました。そうした重要な役割と対比しますと、実にコンパクトな印象を感じる、比高差30m前後の南北方向150mほどの細長い独立丘陵なのでありました。
 無論余り時間も無いことから、あくまでも後日の再訪を前提とした所在地確認が主な目的ではあります。とはいうものの実は訪れた時点では100%この場所であるかどうかについては確信が持てず、その後町史などの記述等様々な情報と総合しこの場所で間違いのないことを再確認したような次第でした。
 なお後日縄張図などを確認しましたところでは、北側には堀切ないしは構堀遺構が所在しその南側には主郭、帯郭、腰郭などのひと通りの遺構が存在しているとのことでありました。しかし6月のこの時期では「丘陵全体を覆う樹木の生育状況から見る限りこの時期の確認は概ね困難であろう...」と、ろくに登り口なども確認しないまま憶測で判断いたしました。このあとは別に2か所ほど所在地の確認を行ったのち小浜城へと向かい、さらにこれに続いて二本松城という大物が待ち構えているという行動予定のため、とっとと次の目的地へと移動していったのでありました。


「御祭館」 ⇒ 画像クリックで拡大します
御祭館
※本来は電線が左上にありますが画像処理してあります
( 2008/06/17 南東方向より撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)

郷土史関係等
「三春町史1巻通史編」(1982/三春町)
「同7巻資料編」(1978/三春町)
「三春城と仙道の城(展示図録)」(1998/三春町歴史民俗資料館)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)

史料

その他
福島県文化財データベース
三春町公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。なお、戦国期の田村氏に関してはその家臣団編成と城館の関係について詳細な論考がある。


・2008/08/12 HPアップ
・2008/08/18 記述一部訂正
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