福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
福島県郡山市の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2016/11/15のブログ 久保田山王館 稲荷館/郡山城 郡山館/郡山城 
所在地
 福島県郡山市冨久山町久保田字古町
歴史、人物、伝承

郡山合戦の陣城か
 天正16年(1588年)の「郡山合戦」( ⇒ ほかに郡山の陣、窪田の陣、安積の合戦、夜討川の合戦などともいわれている)において、伊達氏側についていた郡山氏一族はその居城である郡山城に守りを固めていた。葦名・佐竹連合はこの城に攻め寄せたが、伊達氏側の支援によりその落城を免れた。伊達氏側は伊達成実らが久保田山王館(山王山)に布陣したとされるが、合戦当時の両軍の布陣状況、兵力、城砦の配置、合戦の推移、両軍の被害などについては以前から様々な見解があり必ずしも統一されてはおらず、一説には伊達氏側600騎(人)に対して佐竹氏側4000騎(人)というものもあるように、いずれにしても伊達氏側にとっては圧倒的不利な条件での戦いであったことは間違いがなさそうである。
 垣内氏の著書によれば、その際に敵中に孤立した郡山城を支援するために、6月24日に政宗の重臣である白石宗実に久保田館の改修を命じたという。( ⇒ 「郡山の城館」より、ただしこの事実関係を示す原史料は今のところ未確認)ただし、郡山合戦自体は小競り合いであったとはいえ、その後の和睦が7月10日はに行われていることを考慮すると、ただでさえ寡兵であった伊達勢側に久保田館(久保田氏の居館か)という原型を手にしていたと仮定しても、兵力に余裕の見られない伊達氏側がより強固な陣城への改修に向けて相応の人的資源を投入できたのかどうかについては疑問の余地も残るのではないだろうか。なお、この「窪田取出の要害除垣等の普請は翌7月1日にはその完成をみた」とされ、伊達成実や片倉小十郎を含めた8人の武将が2人1組で昼夜にわたり4班編成で守るように指示されている。( ⇒ 「伊達治家記録天正16年7月1日条」)小競り合いが散発するなかで僅か数日間でその完成を見たことになるようなのだが。堀跡の規模などからは、おそらくは和議の発効後に大がかりな再整備が行われたとみる方が自然なのかもしれない。
 その後周知のように、7月4日には窪田除垣番(窪田砦の城番)としてその任に当たっていた伊達成実と片倉小十郎は、現代風に言えば威力偵察のために部隊を進めてきた新国上総貞通の手勢との間に小競り合いが発生し、これにそれぞれ援軍が出てきたことにより郡山合戦最大の軍事的衝突となるに至ったという。( ⇒ 「伊達治家記録天正16年7月4日条」ほかより)
 なお、同記録には「新国貞通(にっくに、にいくに、或いはしんくにとも)が郡山の南より東に打通り、北の取出城と窪田除垣の間を過ぐ・・・」と記されている。この記述を字義通りに解釈すると、「郡山城の付近を南側から東へと回り込み、佐竹方の陣城であ北の取手出城と伊達氏側の陣城である窪田砦の間を抜けて伊達勢を挑発しようとしていた」様子が浮かび上がってくる。ではこの「北の取出城」とは如何なる場所に所在していたのかという疑問も発生する。あくまでも伊達氏側からの記録であることから、この「北の」の意味はおそらくは「郡山城の北」を意味するものと推定される。こうしたことからも、これらの戦闘詳報のような記録類を信ずる限りでは、「稲荷館=郡山城」説が有力とされてくることにもつながってくるものと思われる。
 この郡山合戦はもともと当時病床に伏していた田村清顕の後継者問題に絡み、伊達氏と佐竹氏の主導権争いに端を発したものとされたが、圧倒的に有力な兵力であったはずの佐竹側の幕下の足並み不揃いを含めた佐竹氏側の戦略の破綻なども重なり、合戦の戦況は勝敗のつかないままに岩城氏、石川氏などの仲介により和議を迎え、その戦況に比し伊達氏側は事実上の勝利を得たといえよう。そのおおまかな両軍の配置については、概ね逢瀬川北岸に伊達氏側が陣取り、その南岸に蘆名・佐竹連合が布陣し対峙していたと解されているが、いずれにしても郡山城は佐竹・蘆名氏の軍事力をまともに受けざるを得ない条件下におかれていた。当該久保田城(久保田館、窪田砦)はそうした郡山城の窮状に手を差し伸べるための最前線であり橋頭保でもあったのかも知れない。

(注1)当該所在地について、「まほろん」(福島県文化財データベース)「文化財包蔵地マップ」(郡山市)では「字恩田」と表記しているが、これは東北本線の線路以西を指しており、実際には「字古町」に位置しているものと考えられることからこれを改めた。
(注2)城館の呼称には表題に示したもの以外に「久保田館」(「郡山の城館」より)、「窪田取出」「窪田砦」(「伊達治家記録天正16年7月1日条」より「伊達天正日記天正16年7月4日条」)があるが、同じ「伊達治家記録天正16年7月4日条」では「窪田除垣」の記述も見られるように臨時の普請である陣城の要素が強いものと推察される。

確認可能な遺構
 なし(宅地化により消滅した) ただし古い航空写真からは複郭の堀跡り形跡が確認できる
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2016年11月15日 午前10時45分から11時00分
訪城の記録 記念撮影


 水路と堀跡の一致を確認
 まほろん」「文化財包蔵地マップ」「郡山の城館」「福島の中世城館跡」には一応中世城館跡として掲載されてはいますが、いざ現地に足を運んでみますと、無論標柱などの目印もないことからその所在地がはっきりとは分かりませんでした。これらの基礎的な資料から分かることは、逢瀬川の北岸に所在し、磐越東線が緩やかに東へとカーブする東側の住宅地内の一角であろうと推定されていますので、おおむね古町団地の集合住宅のある辺りということになるものと考えられます。
 推定される辺りを南側から少しずつ地形に注意を払いつつ近づいていくと、およそ高さ1.5mほどの崖線( ⇒ たぶん逢瀬川の河岸段丘と推定)が残され、館跡はその北西側に近接して所在し、全体として周辺の水田地帯に比して微高地を形成していることが窺われました。
 また、戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影された航空写真には、耕地化されているものの3か所ほどの郭とその周囲を囲む堀跡の区画が明瞭に写っており、この航空写真からは、現在の古町団地西側の児童公園沿いの水路が当時の堀跡の位置にほぼ一致していることも窺い知ることができます。地表上には明確な城館遺構こそ残されてはおりませんが、中世城館跡に関心を持つ者にとってはこうした僅かな形跡を辿ることができるだけでも嬉しさがじわじわと湧き上がってくるのでありました。それが仮にコンクリートで固められた小さな水路であったとしても。

( 2017/02/13  記述)

小規模な崖線地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
小規模な崖線地形−画像A
( 2016/11/15 撮影 )
訪城アルバム
南側の逢瀬川 ⇒ 画像クリックで拡大します
古町の地名 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 南側の逢瀬川
 近代以降の度重なる河川改修をうけて、その流路は大きく変貌してはいますが、水量の豊富な阿武隈川の支流のひとつです。郡山合戦当時には、この川を挟む形で画像右側が伊達勢が布陣し、画像左側に佐竹・蘆名勢が向かい合う形で布陣し対峙していたということになります。
凸2 古町の地名
 十字路のカーブミラーに付された「字古町」の地名です。探訪の折などに何も見当たらないに場合などの「保険」として撮影しておくことがよくあります。

崖線地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
古町団地近くの小公園脇にて ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 崖線地形
 「画像A」の個所を南側から撮影したものです。河岸段丘の特徴がよく出ている低い崖線地形で、下記の航空写真でもわかるようにかつての流路を髣髴とさせる円弧状の地形をしています。このすぐ北西側にかつては当該城館が存在していました。
凸4 古町団地近くの小公園脇にて
 ウェブ地図などを参照しますと、この古町団地西側の小公園の辺りの細長い方形をした区画が、下記の航空写真の堀跡にほぼ一致しているように思われました。この画像の個所は「画像5」の水路の左上の植え込みに相当するはずです。

「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真から ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 水路
 現在ではコンクリートに囲まれた細い水路となりましたが、それでも航空写真に写っている堀跡状の形跡とほぼ一致はしています。「画像6」の赤枠で囲まれた久保田城の右側の方の南北方向にのびる堀跡状形跡がこの小さな水路とほぼ一致するものと考えられます。
凸6 国土地理院航空写真
 1948年3月26日に当時の在日米軍が撮影した航空写真(USR-R1172−54、撮影高度2438m)をもとに画像を拡大し、必要事項を追記したものです。複数の郭を区画する堀跡の形跡が明瞭に撮影されています。伊達勢前線の要衝である西の久保田山王館との距離は直線で約500mほどです。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島(「福島県の中世城館跡」を収録)」(2002/東洋書林)「比丘蓮館」として収録
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)記載なし
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)記載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社) ⇒ 「比丘蓮館」として収録
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述し、簡易な解説と共に久保田館として収録されている。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) ⇒ 「郡山合戦」に関する記述あり 
・「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市) ⇒ 「郡山合戦」に関する記述あり
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編) ⇒ 「郡山合戦」に関する記述あり
・「郡山の地名(口承文芸刊行物)(2005/郡山市教育委員会)」
・「伊達政宗の研究」(2008/小林清治 著/吉川弘文館)
 ⇒ 66頁から73頁にかけて「郡山合戦」の背景と経緯に関する論考がある。

史料、地誌
・「復刻版 奥州永慶軍記」(2005/校注 今村義孝/秋田無明社) ⇒ 「郡山合戦」に関する記述あり
 ⇒ 戸部正直が元禄11年に稿了したとされる近世の軍記で、奥羽両国の旧記と古老の見聞直談を採集したとされる。復刻の元になった刊本は1966年に人物往来社から刊行されたもので、自筆本は存在しないことから写本および史籍集覧等を底本としている。
・「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より) ⇒ 「郡山合戦」に関する記述あり
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)「伊達治家記録」「天正伊達日記」などの記録類を所収

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 「比丘蓮館」として収録
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 「比丘蓮館」として収録
・「国土地理院航空写真」(国土地理院ホームページから)


・2017/02/13暫定版 HPアップ(もしも可能ならば2017年10月以降に必要な改定・追記を予定しておりますが、なにぶんにも先のことは分かりません)
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動